
ドラマ 不毛地帯 最終話の中で
終盤、壱岐さんとライバルである
東京商事の鮫島氏が空港で会うシーンで鮫島氏が
「これから、デトロイトですよ・・・何かと大変・・」云々
といセリフがありました。
ドラマの中で鮫島氏の仲介で最初に資本提携に至る
フォーク(フォード)と東和自動車(マツダ)ですが、
現実に、この提携は、苦難の道を歩むこととなります。
1970年9月 フォードとマツダは資本提携の交渉が
始まります。何故フォードはマツダをパートナーに
選んだのでしょう?
これは、前年の1969年10月にマツダがフォード・日産と
「日本自動変速機」の設立に合意事によりお互いが
顔見知りの関係だったことと、クライスラーと三菱重工が
「三菱自動車工業」を設立することに合意したことが
関係しているようです。
一刻も早く日本市場に足場を築きたいフォード
自動車メーカーとして第三位の位置を確固たる
者としたいマツダの利害が一致したと考えられます。
当時、マツダはロータリーエンジン(RE)の技術を
西ドイツのNSUより導入し苦難のすえ実用化に
成功し、このことにより企業イメージが
高まり販売台数が伸び続けていました。
こうした背景もありマツダとフォードの話し合い
は順調に進んでゆきますが、1971年に入り
NSUよりREの特許がこの提携により侵害される
との理由によりクレームがでます。
このことは、出資比率の見直しで何とか解消しますが
この年の8月に発表された「ニクソンショック」と呼ばれる
金とドルの交換停止・10%の輸入課徴金の導入・ドルと円の
変動相場制への移行により中断し交渉は白紙に戻されます。
当時、「夢のエンジン」と言われたREを実用化したマツダは
対米輸出が1971年に始まり1973年には11万台に
なっていました。その約80%がRE車で占められ、REの物珍しさから
クルマが飛ぶように売れていました。その事がたとえフォードとの交渉
が決裂しても何とかなるという勝算があったのかも知れません。
しかし大きな落とし穴が口をあけていました、1973年秋から
始まるオイルショックです。もうひとつが米国内の未熟な販売網
REは、まだ成熟した技術ではなかった為、部品の消耗が激しく
北米市場でのアフターに問題が発生する事となります。
国内各社が減産に踏み切る中、輸出に望みをかけたマツダは
増産計画を発表、設備投資も増大します。この事により大きな
赤字となりますが、さらにマツダは「REの失敗はREで取り戻す」
という方針を打ち出し、国内でトヨタへのRE導入を働きかけ
ますが、オイルショック後の部品高騰等により失敗し、経営が
悪化、通産省の働きかけで日産との提携が図られますが
日産より拒絶されます。ついにはGMへ売り込みを行いますが
「ロードぺサー」の導入止まりで、経営改善には結びつきませんでした。
ここで、登場するのが、主力銀行の住友銀行と
伊藤忠商事(ドラマでは近畿商事)です。当初住友銀行は
マツダと三菱自動車の提携を検討していました。この提携は
REで手一杯のマツダに三菱自動車が、軽自動車のエンジン供給
という形で始まりうまくいくと思われましたが、通産省がすでに外資
との関係で設立した会社との提携に難色を示す形となり失敗します。
伊藤忠商事は、計画中の「RX-7」のヒットを狙い、マツダは手薄な販売網
のカバーの充実と言う思惑が一致、更に伊藤忠商事ははマツダのレシプロ
エンジンをオペルへの売り込みを計ります。
いすゞとGMの提携を成功させた実績からマツダとGMの関係も検討
されたようですが、独占禁止法の点から無理と判断、
いすゞとマツダの提携を模索しますが、この事によりいすゞはGMが
普通車はマツダ、トラックはいすゞと提携方針を変えるのではという
危惧から失敗に終わります。
そこで住友銀行と伊藤忠商事は、以前の交渉において細々と関係
の続いていたフォードとの再度の交渉をはじめます、フォードも世界戦略
の中でアジア極東進出が遅れていた為に交渉のテーブルに着き
何度かの交渉をへて1979年11月1日に提携の模索が始まってから
12年間の歳月を費やした資本提携がやっと成立することとなります。
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Posted at
2010/03/14 01:55:50