
東京在住のK・T氏より
先週の11月21〜22日
田園調布せせらぎ公園
(東急東横線 多摩川駅前)
にて開催された
「多摩川スピードウェイ・回顧展」の
画像が届きましたので・・・
ご報告させていただきます。<(_ _)>
さて・・・「多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)」とは
何ぞや?と思う方も、多いとは思いますが・・・
「面積四萬坪、コース一哩、三萬人を収容する大スタンド等施設完備せる
東洋一の自動車大競走場」として
1936(昭和11)年に作られた
日本初の常設モーターサーキット場
一周1,200m、幅20mのオーバルダートトラックコースに
多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造で
メインスタンドの収容人数は数千人程度、
サーキット敷地内の最大収容人数は3万人とされております。
1936年6月7日には日本初の本格的な自動車レースとなった
「第1回全国自動車競走大会」が開催され
1万人以上の観客が詰めかけました。
日産自動車を始め大手自動車各社も
ワークス体制を組んで参戦したこの大会の優勝車は、
手作業で組み上げた「オオタ号」
当時、周りからも優勝確実と言われた
日産自動車社長、鮎川義介は激怒したと伝えられています。
オオタ自動車工業栄光の陰で
悔しい思いを噛みしめて、後に自動車業界で大成するのが
フォードをオリジナルの8バルブを16バルブ改造した
「浜松号」を駆ってレースに参加した、本田宗一郎氏
レースでは、余りの猛スピードの為コーナーで制御できず車は横転、
ドライバーの宗一郎は車外に放り出されるも
幸いにして一命を取り留めると言う、苦い経験をしています。
もう一人が、ワークス体制で臨み
優勝本命とされながら町工場、
「オオタ自動車工業」にしてやられ
思っても見ない辛酸を舐めた日産自動車で
後に、FAIRLADY Z の父と呼ばれる 片山豊 氏
戦後この二人が、挫折をバネに
日本車を世界に通じるレベルまで
引き上げ、羽ばたいていった事は、皆様ご承知の通りです。
今回の回顧展では、1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)にかけて行われた
「全日本自動車競走大会」を回顧して、その歴史的意義を後世に伝えるものとして
設置後3年で太平洋戦争が開戦僅か3年足らずの運命だった
「多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)」
知られざる戦前の日本サーキット史と自動車産業にもたらした功績
戦後の自動車産業にもたらした功績を残した
先達知る上で
大変意義のある開催となったのでは、無いでしょうか?
この様な展示会が、地方でも開催されれば是非行ってみたいものです。
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Posted at
2015/11/27 23:30:34