
すでに・・・
ニュース等でも報道されて
おりますが・・・
戦艦「武蔵」や戦艦「山城」「扶桑」と
みられる残骸、駆逐艦「島風」などを
発見している、マイクロソフト共同創業者
ポール・アレン氏(昨年10月死去)の調査チームによって
旧日本海軍の戦艦「比叡」の沈没場所が特定され、発見されました。
沈没の戦艦「比叡」発見 南太平洋で米調査チーム
【ロサンゼルス=共同】
太平洋戦争中の1942年、南太平洋で沈没した旧日本海軍の戦艦「比叡」の一部を、
米調査チームが5日までにソロモン諸島沖の海底985メートルで発見した。
同チームによると、見つかったのは全長約220メートルの船体のうち、約150メートルの残骸。提供された写真や
映像には、深海に横たわる船体や高射砲の砲身、巨大なスクリューなどが写っていた。
船体の映像を検証した広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)の
戸高一成館長は「火薬庫があった船体の前方部分がなくなっており、
爆発が起きて沈んだ可能性が高い」と指摘した。
戦艦の歴史をまとめた資料などによると、比叡は1914年に完成。
天皇が乗船する「御召艦」としても使われた。太平洋戦争では真珠湾攻撃などに参加。
42年11月に米巡洋艦船隊との海戦で沈没した。戸高氏によると、
太平洋戦争で旧日本海軍が初めて失った戦艦という。
発見したのは米IT大手マイクロソフト(MS)共同創業者で
資産家の故ポール・アレン氏=昨年10月死去=が設立した財団の調査チーム。
これまでもフィリピン沖で戦艦武蔵とみられる船体を発見するなど
多くの戦艦の残骸を見つけている。
2019/2/6/日本経済新聞配信
さて・・・今回発見された 海底に眠る戦艦「比叡」
どんな戦艦だったのでしょう?
こんな雑誌を出してきました。
大阪朝日新聞 昭和9年3月5日発行「皇國の護り」
当時の日本陸海軍の兵器を世界情勢を絡めて
伝えるプロパガンダ雑誌ですが
この中の一枚に収められているのが
御召艦を務めた戦艦「比叡」の雄姿です。
「比叡」が建造されたのは、明治末から大正初期にかけての時代
日本海軍が大艦巨砲主義に邁進していた時期
1906(明治39)年1、イギリスが戦艦「ドレッドノート」(弩級戦艦)を竣工させると、
世界各国の保持する戦艦は旧式化し各国は対応に追われます。
日本海軍も保有している戦艦の旧式化を認識し
国産で弩級戦艦の建造を進めようとしますが、技術的な事もあり
海外から弩級戦艦とその技術の導入を図ることにします。
この計画に沿って1910(明治43)年11月イギリスの造船メーカー
ヴィッカースに発注された船が、巡洋戦艦「金剛」
1913(大正2)年11月5日に神奈川県の横須賀へ到着します。
巡洋戦艦とは・・・戦艦より高速、軽装甲、同等火力を保持する船で
「金剛」は、主砲に世界初の14インチ砲となる45口径35.6cm連装砲を4基備え、
装甲も当時最新の「ヴィッカース鋼鈑」で、垂直装甲が側面部で最大203mm、
水平装甲が防御甲板で最大70mm、機関は直結タービン2基で、6万4000馬力、27.5ノット(50.9km/h)
を発揮します。日本海軍初の「超弩級」艦として「走・攻・守」の三拍子揃った高性能艦でした。
「比叡」は「金剛」型のノックダウン生産された2番艦で、横須賀工廠で建造され、
1914(大正3)年8月4日に竣工した国産初の「超弩級」艦となります。
続けて同型艦「榛名」「霧島」も国産として竣工
この技術の経験値がその後の国産戦艦に繋がってゆきます。
1930(昭和5)年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の制約で、砲塔1基、側面の装甲板を撤去し、
上限18ノットに合わせてボイラーも減らした練習戦艦となった「比叡」は
艦内スペースに余裕ができたため、皇族が座乗される御召艦として改装され、
昭和天皇の観閲式での観閲艦や台湾への行幸などに使われ
日本を代表する戦艦として、切手や雑誌にも多く取り上げられる事も多く
「アイドル的存在」でもありました。
また・・・日本海軍では、命名慣例で戦艦には旧国名(大和・長門)が名付けられていますが、
「金剛」型は、装甲巡洋艦(一等巡洋艦)として計画されたことから、
同型艦全て山岳名が名付けられています。
1936(昭和11)年12月末のロンドン海軍軍縮条約切れを待って、
「比叡」は、1937(昭和12)年4月から広島県の呉工廠にて、
「金剛」も、1931(昭和6)年の改装で戦艦へと艦種変更
「比叡」は、試験的に塔型構造の艦橋を採用するなど、
後の「大和」型建造のテストを兼ねた回想となり
最高速度約30ノット(55.5km/h)を発揮できる「高速戦艦」として生まれ変わり
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日の「真珠湾攻撃」以降は、
足の速い空母機動部隊に随伴できる貴重な戦艦として高速性能を生かして、
空母機動部隊の護衛として参加しました。
しかし・・・1942(昭和17)年11月、ガダルカナル島をめぐる熾烈な攻防戦において
アメリカ航空機による攻撃で輸送が妨害され、不利な展開の日本軍は
航空機の拠点であるヘンダーソン飛行場へ夜間の砲撃を
足の速い「比叡」と同型の「霧島」を主力とする艦隊行う
「第3次ソロモン海戦」を決定、日米双方で足並みが乱れ、
統制のとれない出会い頭での戦いとなった「第一夜戦」と呼ばれる戦闘において
飛行場への砲撃は果たせず敵味方の識別もままならない混戦の中
「比叡」は敵艦を砲撃するため、探照灯(サーチライト)を使用
この事で、逆に敵弾が「比叡」に集中、命中弾は80発以上を数え、
「比叡」は操舵不能に陥り、艦橋を中心に上部構造物へ大きな被害を受け、
更に夜明けと共に開始された空襲によりその主砲や機関にも損傷を受けるなどし、
総員退艦と注水による自沈が命じられました。
こうして・・・「比叡」は太平洋戦争で戦没した、最初の日本戦艦となってしまいました。
現代では、「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」とよばれ
スキューバダイビングの人気スポットにもなっている
ガダルカナル島周辺の海域は日本人も多く訪れるようですが・・・
今回発見された「比叡」を始め、日米の艦船、航空機が多く沈んでおり、
多くの人々が眠る墓所であることも忘れないようにしたいものです。
ちなみに・・・「金剛」型戦艦の名称は
海上自衛隊の護衛艦にも引き継がれておりますが
「宇宙戦艦ヤマト」にも型式名「M-21741式宇宙戦艦」として登場しており
最後の地球艦隊の旗艦(司令船225号)として冥王星会戦(メ号作戦)で
唯一、生還した沖田提督の「キリシマ」が知られています。
型式名「M-21741式宇宙戦艦」は、
当初の放送時には、『沖田艦』名称でしたが
リメイクされた「宇宙戦艦ヤマト2199」において
戦艦『キリシマ』の艦型名が付けられました。
同型艦には
「フソウ」「コンゴウ」「ハルナ」ヒエイ」
「ヨシノ」「ミョウコウ」「チョウカイ」があるようですが
ガミラスとの戦闘において失われ残存しているのは
「キリシマ」のみという設定になっています。
また、続編『宇宙戦艦ヤマト2202』では、
機関部を波動機関に換装し、ショックカノンを通常兵装とした
金剛型を改良した金剛改型宇宙戦艦が就役
古代進も金剛改型「ゆうなぎ」に乗艦しています。
という事で・・・
今宵の奈保子さん動画は・・・
宇宙戦艦ヤマトの映像をバックに
アルバム「さよなら物語」より・・・「VENEZIA‐水の中の蜃気楼‐」
アルバム「ブックエンド」より・・・「美・感性」
「愛をください」 を・・・
さて・・・3連休明け…ですね~
#NAOKOfanmeeting