
唐突ではありますが・・・
皆様は、この画像の旗を
ご存知でしょうか?
歴史好きの方なら、この旗が
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の旗印と
知ってらっしゃるかもしれませんが
多くの方は、ご存知ないかもしれません。
今年は、明治のご維新から150年の節目
大河ドラマもこれに合わせ、維新を行った側の目線で
「西郷どん」放送されています。
明治維新といえば、武家社会から、日本が近代国家へ走り出した起点であり
大きな転換点だったのは事実ですが、解かり辛らく、しかも・・・
学校の日本史の授業では、後期に入る事から、あまり重要視されておりません。
「西郷どん」でも・・・かなり省略されてました。
2018年10月23日火曜日の地元紙
河北新報のコラム河北春秋に、こんな一説が、掲載されました。
首相官邸のホームページにこんな文言がある。「明治の精神に学び、
日本の強みを再認識することは大変重要」。
今年は明治維新から150年。政府はさまざまな記念事業を実施する。
23日は東京で記念式典を開く
50年前の明治100年式典の時は佐藤栄作首相だった。
安倍晋三首相の大叔父。
いずれも明治維新を進めた長州(山口県)から選ばれた首相が日本の近代化の節目を祝う。
だが、戊辰戦争で多数の犠牲者を出した東北の影は薄い。
東北では戊辰戦争から150年の年。
会津若松市など各地で追悼行事があった
戦争で会津藩と庄内藩を救おうとした東北の各藩は、
奥羽越列藩同盟を結成。平和解決を求めたが、新政府に一蹴され、戦火に巻き込まれた
全ての戦争がそうであるように、理不尽な戦争だった。
天皇が絶大な信頼を寄せた会津藩は皇が代替わりした途端、「賊軍」に。
偽勅や偽の錦旗が力を発揮した。
「勝てば官軍」。勝った側の論理で歴史はつくられた。
最近は維新の歴史を見直す本の出版が相次ぐ
東北は蝦夷征伐から戊辰戦争まで何度も西の勢力に一方的に攻め入られた。
全て負け、不当な東北蔑視が長く続いた。
そんな東北の歴史を知らない人は多い。無理もない。
教科書には小さくしか載っていない歴史なのだから。
歴史には様々な見方がありますが、安倍晋三政権は
「明治維新150年」を唱え、祝賀ムードを
全国に広めようとしていますが・・・
長州・薩摩藩中心の新政府軍に敗れ
「朝敵」「賊軍」の汚名を着せられた会津藩や、
これを救おうとした東北、越後各藩のあった地域では、
「明治維新」ではなく・・・
「戊辰戦争150年」を掲げる自治体も少なくありません。
本来であれば、フランス革命同様に
国の記念日にもなるかも知れない
明治維新なのですがどうして?
地域によって考え方が違うのでしょうか?
少し考えてみました(あくまでも、私的な考え方です)。
戊辰戦争の簡単な流れは・・・
鳥羽・伏見の戦い→江戸城無欠開城→彰義隊との合戦(上野戦争)
奥羽越列藩同盟の結成→北越・会津戦争→函館戦争→戊辰戦争終結
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、
1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表しします。
罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)
この時、多くの諸藩が、新政府の肩を持ち、倒幕の動きに
呼応するのですが・・・江戸城無血開城により徳川慶喜が
恭順の姿勢を見せ謹慎すると、その矛先は・・・
会津藩主松平容保(かたもり)へ向かいます。
何故?会津藩なのかと言えば・・・
文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は、幕府から懇願され
火中の栗を拾う形で、やむなく京都守護職となり
尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなります。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、
元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、
蛤御門の変では、長州藩兵と戦い遺恨を残します
職務上やむを得なかったとはいえ、薩長を中心とした新政府からすれば・・・
会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨み骨髄だったという事で・・・
略略、私怨の様な形での、会津藩へ拳を振り上げた形になります。
しかし・・・会津藩は一貫して和平の道を模索
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、
2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい
会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎して、朝廷の命を待ち
尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出
和平の周旋を懇願しますが、良い返事はありません。
こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、
朝廷との周旋を決意、仙台藩からも米沢藩に使者が使わされ、
新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して
奥羽での戦乱を避けることで合意、その後も、会津藩は何度も嘆願書を、
仙台藩や米沢藩をはじめとする奥羽諸藩も会津寛典嘆願書をそれぞれ提出しますが、
いずれも退けられてしまいます。
そして・・・3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、
大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して
会津・庄内の征討を発令
それでも、恭順の意思を示している会津藩を救おうと、
仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が、会津藩謝罪の周旋をしたいと
会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに
参謀の世良修蔵(長州藩)は激怒し・・・
「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示
そこで仙台藩主の伊達慶邦は家老級3名の切腹と領地削減を条件に
会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で
『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を
4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出しますが・・・
参謀の世良修蔵(長州藩)はそれをも拒絶し、
仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命を下します。
そもそも、奥羽鎮撫使として派遣された
世良修蔵(長州藩)の派遣以降の不行状
「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅すという
高圧的な態度は、奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者を
仙台藩の若手藩士を中心に増加させることとなり
さらに・・・仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると・・・
世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた
4月19日付けの密書が発見され決定的な物となります。
この密書には・・・
「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、
大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。
米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」
とあり・・・奥羽諸藩をを全面的に武力制圧することが書かれていたことから
会津に対しての和平を意固地なまでに撥ね付け
日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、
仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、
仙台藩軍事局は世良修蔵を捕らえて糾問することとし
4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が
福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛
部屋にあった4月15日付の大山参謀からの密書接収すると
その密書には・・・
「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、
甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、
両三年の間差し留め候」などと書かれていました
この書簡により、それまでは、平和裏に解決を図っていた
奥羽人の怒りが爆発、世良は斬首とされる事に・・・
「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが
本来の仕事であるはずなのですが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、
会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は
毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことが
この戦争を引き起こす不幸と言えます。
ここに至り、会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、
奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなり
4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて
仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による
奥羽列藩同盟が結成され、同盟の建白書が起草された。
そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を
申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことはかえって
王政復古の妨害になることなどが主張されますが
この建白書の主張が正論であったがゆえに、
会津藩に対する戦略で拳を振り上げてしまった明治新政府は
奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなってしまいます。
さらに、5月4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、
6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立
会津藩、庄内藩と運命を共にすることになった奥羽越31藩から成る同盟軍は、
こうして新政府軍との激しい戦いへと突き進んでいくことになったのです。
結果、奥羽越列藩同盟は、敗北 賊軍の汚名を着せられ
北越戊辰戦争最大の激戦地となった、
河合奈保子さんのご両親のご実家のある
新潟県(越後長岡)では、3ヶ月に及ぶ激戦の結果、
長岡の街は焼き尽くされ人々の生活は困窮、
会津の人々にいたっては、長いあいだ朝敵の汚名に耐え、
若松を追われ、青森の下北(しもきた)半島や北海道に移住させられ
一世紀以上にわたり、その怨念(おんねん)を胸に秘めてきた。
一般的な教科書では・・・戊辰戦争について江戸開城後、
「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して
会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、
会津藩も降伏した」 位しか書かれていませんが
会津藩は、新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて
新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという
真実は、読み取ることは出来ませんし、ましてや朝敵とされていない
東北・越後の諸藩が、多くのリスクを抱えて迄、同盟を組んで新政府との戦に臨んだかを
理解する事は不可能でしょう。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは
新政府の方針であったのかもしれませんが
私怨で多くの住民を争いに巻き込むべきではなかったと思います。
慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、
NHKの大河ドラマ「西郷どん」の影響もあって、
明治維新の人物が脚光を浴びていますが
東北や新潟での出来事はあまり注目されていません。
それは、坂上田村麻呂の蝦夷征伐以降、現在の福島原発問題まで繰り返される
東北軽視の考え方が根底にある様に思えてなりません。
現在、河北新報社では、特集として「奥羽の義」を連載しています。
お時間のある時にでも、お読みいただければ・・・幸いです。
奥羽の義 戊辰150年 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS