こんにちは。TYLORです。

久しぶりに出張に行くことになりました。
しばらく遠出の出張がなくて近場だったので、なんかS660に乗るのも久しぶり。
ってほどでもないですが、、、首都高行ってるし。
まぁ100km以上の距離を走るのは久しぶりということで。
昨年も夏頃に行った宮城県の仙台。
今年も夏に行くことになりました。定期的に行かないといけない事になっていますが、行こうと思っててもまぁまぁ後回しになって1年経つ。 おじさんになってからこういうの増えたな。

初日は無難に商談やら視察やらして終了。
いつもビジネスホテル的な宿に宿泊するのですが、別にサービスほぼほぼ一緒なのでなるべく安い宿を探します。
だいたい狙うのは7000円〜8000円くらい。物価高とはいえ、まぁまぁその値段でもある。
ですが今回はぜんぜん無くて、安宿を求めて仙台空港のほうまでS660を走らせました。
仙台駅から電車で30分くらい?かかる。
翌日も朝から商談と視察。
14時少し前には仕事を終わらせて、お昼ご飯も食べずにS660で国道6号線を南下します。

国道6号と国道4号の分岐地点。
6号は福島県から茨城県の海沿い、4号は福島県から栃木県へと山沿い。
でも最終的には自分が住む地域も通って、中央区日本橋の起点へ。
4号、6号ともにココをまっすぐ走っていけばとりあえずは家には帰れるな。
とか、別に安心でもなんでもないけど、知ってる道があると安心した。
今日はココを左折して、国道6号を南下していこうと思います。
昨年は峠道をひたすら走りたくて、4号線方面へ進み国道349号を走りました。
まっすぐそのまま200km以上のワインディングを進み、茨城県の水戸市まで到達できます。
今年は、国道6号の海沿いを少し走って、ある目的地へ立ち寄る予定です。

仙台市内から1時間くらい走ったあたりで到着するJR常磐線の坂元駅。

ココは東日本大震災で旧駅舎が被災して、2016年に移設された新しい駅舎でした。

ここ10年ほどに新設された駅という事で、駅舎も設備も新しい。

常磐線は震災の被害にあってから高架化していました。

天気良かったのですが、なんだかいい景色だ〜 というふうにはならなかった。。
時刻は間も無く16時になるところでしたが、ギリギリ間に合った。

今回、どうしても立ち寄りたかったのがココ。
「震災遺構中浜小学校」。
3.11東日本大震災で児童と先生、地域の90人が屋上に避難して津波被害から助かったという施設です。
自分は東北出身とかでもなく、当時も今も住んでいる地域は東京の外れの貧民街ですので、そんなに直接的な被害はなかったです。ですが、この東日本大震災は人生の中でも結構大きな災害でした。
自分の人生なんてまぁまぁショボい歴史しかありませんが、この出来事で考え方を変えさせられました。

入館料を払って目的の遺構へ。「閉館ギリギリですけど大丈夫ですか?」って聞いたら、ゆっくり見てもらっていいですよって言ってもらえた。
自分はぜんぜんこの場所に来たこともなかったのですが、もう施設の外観を見ただけで心臓の鼓動が高まりました。おまけに、施設の受付の人に「ゆっくり見て」なんて言われて、早くもジワっときてる意味不明なトランス状態。

まずは建物外観をぐるりと一周。
なんか感動してとか懐かしむとかとは全然違う、手が僅かに震えている状態。
とても平常ではない自分。意味わからんけど、とりあえず見学を続けます。

津波が到達し、さらに引き潮ですべてを攫っていく。
この柱には鉄骨が入っていますが、それを曲げてしまうくらい強力な力だったんだなぁと思う。

ここは小学校内部の多目的ホール。自分の小学校にもあったな。
こういう当たり前の光景が、一瞬にして流されてしまうんだなぁと思った。

地震発生からおよそ1時間程度で津波がこの小学校に到達したそうです。
その時まで動いていて、津波によって壊れた学校の時計。 小学校とかによくあるヤツ。

生徒や先生、地域の人たち90人が極寒の中を過ごした屋上。
実際にすごした屋根裏部屋も見学できた。
津波は屋上ギリギリまで到達したんだそうです。
この屋上からの風景は、もともとは周辺に海からの防風林が広がっていてこんなに開けて海が見えるなんてことはなかったそうです。
津波が全てを流して持っていってしまいました。と説明を受けました。
自分は大きな地震が収まって、さらに余震は続きましたが、海が近い地域でもないので「津波」って警戒というか気にしたこともなかったです。
でも、この遺構である小学校は、地震から1時間の後に津波に襲われました。
自分だったらデカい揺れが収まったら、「ヤベー」って感じで終了モードだったと思います。
日頃の防災意識や備えなど、施設を見学して大切さを感じます。
この建物は平成元年に完成したそうです。いつの日か来るかもしれない東北地方の震災を想定し、建物を底上げして想定される津波にも耐えられるように頑丈に設計されたそうです。
それが功を奏して欲しいなんて誰も思わないですが、結果的には役目をちゃんと果たした施設だと思います。
あの3.11の日、自分は仕事中で会社にいました。
まだ20代だった。
自分の住んでいる地域は震度五強って震度でした。それがどれくらいデカいのかよくわからん。
でも人生で一番強烈な揺れでした。
その2日前に茨城県の水戸市にお客さんを訪ねて商談していました。
そのお客さんの紹介で、仙台にある会社を紹介してもらいました。
水戸で商談中、けっこうデカい地震に見舞われました。
たぶん震度4とかそんな。
けっこう揺れが大きく、客先の商談ルームの中でテーブルにしがみついた記憶があります。
先方のお客さんとも「ヤベーヤベー」言い合って、「近々デカいの来るね」なんて会話しました。
そのまま仙台へ向かっちゃえば、今週中にデカい新規取引2件ゲットできんな。
とか欲をかいていましたが、
なんとなく、ふと思って、
別に急いで新規2件進めるよりも1件目をちょっと時間使って進めてもいいかな。
とか思ってその日は東京へ帰りました。
で、その2日後の大震災。
もし仙台に向かっていたら、戻ってくるのはこの日の予定でした。
別にニアミスでもないし、具体的に虫の知らせみたいなのがあったワケでもない。
ですが、なんとなく水戸で、別に急がなくてもいいやって思った自分に、何か虫の知らせがあったのかもしれない。 こじつけかもしれないけど。
自分はその時以来、ノリと勢いで生きるのをヤメにました。
いま正しいと思っていることでもふと感じたり思った疑問は、なるべく信じて進む方向を決めるようにしています。
なんか、中浜小学校の遺構を見学していて、なんとなく平常心でいられない自分は、きっと90人の命を救った小学校に対して、言い表せない何かを感じたのかもしれない。
避難を決断した当時の校長先生が「あの判断は本当に良かったのか、今もわからない」とコメントしていました。
一歩間違えればって思うと、結果的に英断だったとしても、良かったと安心できない。
自分は仙台行くか行かないか程度の決断でしたが、もしそこで被災していたら、長男も長女も次男坊も生まれていないかも。。。とか考えなくもないのですが、これ以上考えると誇大妄想がハンパないのでやめます。
3.11、電車止まったりして交通網は大混乱。徒歩で帰宅しました。2時間くらいかかった。
最初に確認したのは、嫁や家族の安否?とかではなく、
当時納車1ヶ月目、新車のプジョー308の安否。でしたけどね。

中浜小学校の遺構を後にして、かつて常磐線の線路があった道を進みます。
あの3.11の2日前、水戸から常磐線の「スーパーひたち」に乗って仙台行っていたら、ココを通ったかもしれない。。
周囲が水田とかへ長閑な一本道ってワケではない、津波がすべてを流した後にできた風景。
たしかに周囲には何もない一本道ですが、コレは複雑な気持ちになる。自分は。
このまま6号線を南下して茨城県に入ったら高速乗ろうかなと思いましたが、やはり峠道も走りたくなって、途中から進路を山道に切り替えます。

去年も走った349号線に合流します。ここからはワインディング。
このまま海沿いを走って帰宅困難地域や福島原発の近くを通るのも考えたのですが、いまの精神状況でその地域を通るとまたネガティブな思考になりそうだったのでヤメにしました。

気がついたら朝ごはんいらい何も食ってねぇ。
道中でローカルな感じのラーメン屋に入りました。おいしかった。

気温は仙台市内でも30℃でしたが、夕方の峠道は25℃くらいに落ち着いてきました。
ココからはオープンで走ります。

この国道349号は200km以上の峠道が続く道です。
もうちょっと涼しくなってからオープンで走ると気持ちいと思いますが、それ、去年も思ったけどやっぱり夏に来ちゃったわ。

去年も似たようなアングルで撮影したのですが、、、
コレ、S660のフロントショックのリコールで前後ショックにスプーンのダウンサス組みました。
車高が1cm程度下がったらしいのですが、別にわからん。乗り心地もそんな変わらん。
走りはちょっと良くなった気がする気もする気がしなくも無いような気もする感じもなくは無い気がする微妙な感じ。

茨城県の水戸から1時間、自宅に向かいました。

あのまま仙台行ってても普通に帰って来れてたかも知れないし。
直接的な被害って自分には無かったけど。
あの日から考えが変わったのは事実。
それが自分の震災です。
そんな感じです。