福島の戦国大名 蒲生氏郷の忌日です 享年40歳 病死しています
滋賀県は東近江の蒲生出身 もともと滋賀の六角家と言う大名の家臣でしたがその六角家が
信長に攻め滅ぼされ その際 信長に気に入られて娘婿になってしまいます
以降 織田家家臣として大出世 東近江をそのまま預けられ各地を転戦 信長の死後は
豊臣秀吉に従い 三重松坂へ栄転 が
「はあ!?東北に転勤?会津?伊達政宗の監視ィ!?(-皿-;)」
12万石から42万石に大昇給するのですが引き換えにド田舎の会津若松へ転勤
しかも隣家は伊達政宗のおまけ付き 優秀だと秀吉に警戒されての左遷人事と見られています
移動中 栃木の那須で我慢しきれすブチ切れた記録があるようです
「あの糞猿 ド田舎で相互監視させる気だな!!(-曲-メ) 田舎で悪かったな(X - )」
以降 これまた宮城に左遷くらった伊達政宗とガンの付け合い 暗殺しかけたりされかけたり
していたのですが 土地が合わなかったか5年後に病死してしまいます 政宗犯人説も出たの
ですが だいぶ病状が酷かったようで無実みたいですね
「ラッキー これでまた好き勝手できるぜ小十郎(X皿^ ) 今迄違ったんすか?(- -;)」
息子では伊達政宗の監視は務まらないと秀吉に判断され 蒲生家は宇都宮に降格人事
今度は上杉が来るのですがそれは後の事
現在の福島の会津を開いたのはこの人です 会津若松と言う地名も名所の鶴ヶ城も
この人が決めたり建てたり 三重から和菓子職人を同行させて和菓子を広めたりと
今の会津若松が観光でやっていけるのはこの人のおかげ 土産も鶴ヶ城も無いとなったら
洒落にならない話だったんじゃないかなと(^ ^;)
さて 久々に見かけたクルマを
マツダアンフィニのステッカーです なんだかんだで久々にみました(^ ^*)
昨今のみんカラでのマツダアンフィニの猛威は一方ならずと言ったところですが
このマツダアンフィニ 創立は地域で多少前後しそうですがユーノス滅亡の翌年の平成八年
総理は橋本龍太郎 この年 アトランタ五輪が開催されています
「子供と一緒にどこ行こう!?」
この年は武州のホンダ勢が台頭 ステップワゴンで大旋風の年ですね
日産はもう取繕いで精いっぱい 収支知ってた幕僚は生きた心地がしていなかったと思います
が この時期のマツダにとっては五輪もホンダもくそもない
「急げ急げ!残兵を回収次第門を閉めるのだ!・・・・・・・ぐえっ」
五家の内二家を失い ユーノスは宗家とアンフィニに撤退合流 車種統合に家中の再編
OEMの強化にシトロエンおよびランチアとの同盟解消 内定取り消しに株主への陳弁に銀行へ
の説明 敗戦処理だけで目の眩む思い 負債は七百から一千億前後だったと思います
まあまず仲間内には笑われましたねえ よってたかってってやつです
夢中になってる人間が折れるのは大樹の木っ端にとっては快感なんでしょうねえ
「ほら だから俺の言った通り」
十中十までこれです 異口同音 これに付和雷同がついてせせら笑う訳です
(マツダはこの手の風見鶏のご機嫌伺いを止めるそうですね いいぞいいぞ)
田舎の一ファンがこれなんだもん 社員なんて何て言われていたやら
「・・・・・五月雨は 露か涙か不如帰(T T )」
でも翌年銀座が損失二兆円とかぶち上げたの見て生きる勇気が湧きました 何よりマツダが
諦めず頑張っている 私は22歳 士道の何たるかがほんのちょびっとだけ見えた年ですね
それにこの段階で まだ五家、ユーノス再興の夢もまだ信じていました 現にロードスターも
あるし アンフィニ車もまだまだあったし 宗家もオートザムも健在 オートラマは惜しいけど
元々他人みたいなものだし まあアンフィニなんてお洒落な名前では分かりにくいから
マツダアンフィニにしたんだろう なんて事はない まだまだp(o¥o )
この奥があるとは思いませんでしたけど
さて このクルマ 車種はなんでしょうか?d(^ ^)b
そして現在のマツダ店 オートから数えて何回社名変えているでしょうか?♪