いすゞ ミュー 二代目 出てきたのは平成十年くらいでしたか
北米製で日の本では非常に珍しいクルマだと思います(^ ^*)
ディーゼルの3・0とガソリンの3・2 この辺りからディーゼルの性能が大きく向上してきた頃かと。
同時期のビッグホーンは出足はもうガソリン車と変わらなかったと記憶しています
ただこれが出た頃にはいすゞ自体が乗用車はめっきり落ち目 流行っていたSUVはまだしも
セダンはOEMで細々と繋いでいるだけになっています そしてそのSUVが折からのエコブーム
に押されてしまう事に
「ディーゼルSUVで山奥に押し入り焚き火して自然と共存気取りたいっつってたじゃねえか(-皿-;)」
「なにが都市生活者向けの個性あるSUVが欲しいだ 大嘘コキやがって(-曲-メ)」
「2ドアは不便とか言うからわざわざありがちな5ドアにしたんだぞ なんだデカ過ぎるとかって(@曲@;)」
ウィーザードやビークロスともども国内販売はいすゞ怒りのドンケツ争いに陥ります
ユーザーアンケートとか言う横文字を真に受けるとどうなるかの見本じゃないかと思います
特にこのミューは海外生産車な事もあって影薄かったですね いずれも海外ではそれなりだった
ようなのが救いですが 既にディーゼルSUVの実態っていうのが知れ渡ってしまっているし
見た目さえそれっぽければそれで済んでしまう日の本ではちょっと本格的すぎたかも知れません
日産もレグラスの3・3だか出して酷い目にあっていたように覚えています SUVに限れば
いすゞや日産もトリビュート笑ってる場合では無かった筈ですね ミューは三年程で改易に
平成入ってからも三角窓なんかつけてた初代の変わりダネぶりとまでは行きませんが
北米の雰囲気を楽しむならヘタな並行車なんか買うよりよほど堅実でいいのではないかと思います
どうか末永く(^人^)
今日は 福井の戦国武将 朝倉景恒の忌日 年齢は分かっていませんが40は過ぎてるかと
病死か老衰で亡くなったようです
通称は「中務」 福井県敦賀市あたりの出身と思われます
どマイナーな人ですが 戦国時代ど真ん中の人 この時の朝倉家当主の朝倉義景のはとこに
あたる人です もともと武士ではなかったようですが 武将のお兄さんが発作的に自殺した為
急遽跡を継いで武将になったようですね ちょっと遠戚ですが義景が一人っ子で人手不足だから
敦賀や金が崎と言った県境付近の重要ポストに就く事に
福井を出るな、さすればヘブン と言うのが朝倉家の家訓だったのですが 織田信長が圧迫してきた
為に当主の朝倉義景が専守防衛、と集団的自衛権の間でゆらめいてしまいます
「んな高尚なものじゃねーよ 単にめんどくせーんだよ(+ +;)」
渋々開戦に踏み切り敗退 今度は逆に攻め込まれてしまいます
その際 県境守備にあたったのがこの景恒なのですが
「おい!あとどうすんだよ(;TдT)」
朝倉家は敗戦の責任の所在追及会議や対策検討への着手を検討する為の有識者会議に終始
仲間割れまで起こしてしまい 敗戦に懲りた事もあって目先の織田軍に対して誰も何もしない
「だから嫌だと言ったんだ」
「責任を明確にするまでは話し合いに応じない」
「健康上の理由で職務を辞する事になりました 後任が決まり次第・・・・・」
吹っ掛けて負けて侵攻されてなおこんな事態になってしまいます 景恒への援軍が健康を理由に
出てこない 義景に詰問してものらりくらり
「なんで俺ばっかり バカくさい(-д-;)」
景恒は織田家に降伏 敦賀近辺を明け渡します すると
「裏切者だ 責任追及すべき」
と朝倉家から非難噴出 落ち目の時はなすりあい どこもやってる事はいつも同じです
ここで激しい問責をうけて辞表を出してしまい 隠居 落胆が激しかったらしく 半年後に
亡くなっています 朝倉家が滅ぶのはその三年後 朝倉家のブログではこき下ろされて
いますが ブログの中で行ったと主張する援軍が来ていなかった事が援軍の司令官の日記により
確認されています
Posted at 2012/10/27 12:30:13 | |
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