先日 話題にしたステッカーを
宮城マツダ販売ですね 周囲のおっさん達は「宮マツ」と呼んでいます
現在の東北マツダとは企業としては全く無関係
某自身が宮城出身では無いので宮城マツダ販売時代の事はよくわからないんです
恐らく多チャンネル戦役時以前のマツダ店になる筈 現在の宮城のマツダは旧アンフィ二系。
コスモでお世話になってた頃はマツダアンフィ二仙台を名乗って緑の看板でした こんな事なら写真
撮っておけば良かった アクセラ買う半年前くらいに近県の
残党精鋭を糾合して東北マツダになって
いますね 東北を名乗っていますが青森と福島は除外 岩手も土豪が頑張っているので統合には
ちょっと遠い状態 あとはマツダオートザムが宮城以外のあちこちに
宮城マツダは某が仙台に流れて来た頃にはがっくり落ち目だったようで平成十一年に滅亡
営業所は更地になったり自動車教習所になったり 酷いのは墓石屋ですかね あの青い看板の
上に「墓」とかズバリ書かれてるのを見上げて涙したものです そしてその墓石屋までも無くなるん
だからやりきれない(T T )
そして某の買ったミレーニアの年式は宮城マツダが滅亡した運命の平成十一年
いい 実にいい これが廃車になる頃にはひょっとしたら宮城マツダ販売最後のミレーニアに
なっているかも知れない ますますもっていい
ミレーニアのパーツ捨てられてたらどうしよう(-"-;)
今日は 北海道の戦国大名 蠣崎慶広の忌日 享年69歳 老衰のようです
北海道は松前町出身 北海道に戦国大名なんていなさそうですがいたんです
もちろん隅っこにちょびっとだけ 札幌なんてまだその名前もつかない人外境
室町時代に京都から流れてきた武士が青森経由で住み付いたようですね
「フロンティアスピリットってやつですかね しかし寒い( - -)」
アイヌ人と揉めながらもどうにか居ついたようです そして秋田の傘下に入り青森とずっと交戦。
この蠣崎慶広が跡を継いだのは9歳の時 ちょうど本能寺の変が起きた時ですね
そして二十歳くらいの時 船で延々航海の末 豊臣秀吉の元へ挨拶に
「どこから来たって?(;* *) はじめまして(- - )ア~ア~アアアア~♪」
豊臣秀吉は北にはどうやらそんな島があるらしい ぐらいの認識の筈なので驚いた事だと思います
まだ北海道がどんな形しているかも分かっていなかった筈ですね
「う うん いいよ(;- -) 北海道はウチのって事でいいですか?(- - )」
この挨拶で豊臣家によって蠣崎家の北海道全域の所有が認められます
両者にどこまで自覚があったのか分かりませんが これにより実態はともかくとして建前上では
大名家で最も広大な領地面積を持つ大名になります 広さだけなら毛利も徳川も上杉も目じゃ
ありません ただやっぱり貧しかったようで収入は大名としての最低ランクギリギリだったようです
ニシンが主な産業 他はフキだのクマの毛皮だの あとはアイヌの細工品だのたまたまロシアから
流れて来たような僅かな珍品系 江戸時代以前は大名とは名ばかりだったようです
その後 関ヶ原で東軍につき 以後は徳川傘下として大坂の陣にもはるばる参戦
そこにアイヌの戦士達を連れて来たりして徳川家康に珍しがられていたようです
以後は徳川家にも北海道の領有を認められて幕末まで続いて行く事になります
子孫は子爵家になって引っ越してなければ今も北海道にいる筈ですね
Posted at 2012/11/20 21:21:20 | |
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ユーノス800 | 日記