高知の戦国武将 長曾我部信親の忌日 享年22歳 敗死しています
高知県の岡豊あたりの出身で市内で銅像になってる四国のカリスマ長曾我部元親の長男
184センチ 色白 美形 頭が良くて武芸も優秀でパパ元親の自慢の跡取り息子
「信親?いやもう誰に似たんだか(^皿^*)参っちゃいますよ 誰に似たんだか はっはっは」
信親はどの記録でも褒められているのだから余程だったのだろうと思います 織田信長に
「中央に出て来い 田舎オヤジよりずっと広い世を見せてやる」
スカウトされたなんて逸話もあるそうですね
が
後にパパ元親が豊臣家に降伏 すると長曾我部家はそのまま秀吉の九州征伐に駆り出され
大分上陸戦の先鋒を命じられます
「・・・・・・・・・(-"-;)」
この作戦にかなりの無理があったと見られ信親は反対したようなのですが豊臣軍司令官により
決行され大分で島津家久らと衝突して大敗 その際に戦死しています
豊臣司令官の仙石秀久は全て見棄てて逃走し助かりますがブチ切れた秀吉によりリストラ
信親の戦死については島津家からもこの人は強かったと弔辞が届いているそうです ですが豊臣
や島津がそんな事したって信親は帰ってこない 長曾我部家にとっては激震どころの段ではない
「・・・・・・息子が、俺の息子が(゜ ゜ )俺の息子がそんなつきあい仕事で死ぬはずが・・・・」
カリスマ長曾我部元親は衝撃すぎてこれ以来言動がおかしくなってしまい 後任人事は大荒れ
結局後任は弟で真田丸で出て来た長曾我部盛親に決まるのですがそれまでに長宗我部家は
急降下していく事になり四国史にとっても痛恨の一撃ではないかと思います
ちなみに信親が亡くなった年 栃木では
「真岡が裏切って北条につきやがった!ぶっ殺す!p(@曲@メ)」
宇都宮国綱が北条家に寝返った皆川広照を倒す為に真岡に侵攻しますが佐野と壬生が
宇都宮家の呼びかけに応じる事なく離反して敗退 これにより北条家の圧迫による宇都宮家の
滅亡は決定的に
「こっちは長曾我部どころじゃねえよ(TДT三TДT)だ、誰か!」
さて
城下は氷雨となっております 雪になるのも時間の問題かも
そんな中 昨夜の頂いたコメントを読んでいくにつれ
「・・・・・・・・・・・・・・V36・・・・・・かあ(o¥o )まともに考えた事なかったな」
まあそうだろうよ、と言ってしまっては話が終ってしまうので我慢してください
・・・・・。
V系は下野上三川製じゃないですかーやだーもー(^¥^*)また泣かせる御配慮がありがたい
50フーガに傾倒してしまっていた某には改めて見直す良い機会
「安っ!(@¥@;)やはり関東は豊穣の地と言うより他にない 赤の9千キロってなんだこれ」
フーガもですがもはや3・5がなんの威光も示していないですね かつてのトリプル状態と言うか
「苦竹のプリンスか扇町あたりで持て余してんのすぐなんじゃないのこれ?(-¥-;)」
2・5であれば前期でもいいから車検つけて150万位でなんて口走った日には
「いいすいいす 在庫のガンメタで決めてくれるなら車検取りなおしに冬タイヤつけてこの値段で
どうですか?ワイド保証?あーもう全然 つけますつけます 赤の3・5もありますよ?(笑)」
手ぶらで帰れなくなりそうな
フーガ共々2・5があると分かっていながら3・5のイメージが強くて監視が甘かった反省
速攻350GT仕様しか道はないな でかいの魂が無いのとこきおろしたエンスー様様
お陰様で良くできたふかし芋がほくほくと(´¥‵*)アチアチ♪一生5枠にこだわってろって うはっは
フーガとどちらにするか これはこれは悩みが尽きぬ
性能も血筋も歴史も実績も栄光も誇りも賞賛も嫉妬も マツダが羨みぬいた何もかもを
しかし立派なクルマだ(-¥-;)
Posted at 2017/01/20 22:28:29 | |
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