長野の戦国武将 木曾義昌の忌日 享年55歳 病死しています
長野県木曾町出身 源氏の子孫で源平合戦の木曾義仲の子孫と見られています
が
「って言ったってこんな山奥じゃよお・・・・(- -;)」
今でも山地で知られる木曽 450年前となると相当の山の民 あまり勢力拡大ともいかず
武田信玄の圧力に負けて臣従 対織田家の最前線基地にされてしまいます が
「信玄が死んだ!?いつだよ!?(-Д-;)」
信玄が死んでしまい武田が落ち目になると織田の圧力に負け 武田家に預けた親と長男長女を
見捨てる格好で織田に寝返り 親と子供の命と引き換えに武田との心中を避けますが直後に
今度は本能寺の変 今度は豊臣秀吉に従い ホームの木曾で徳川家康に勝利したりしていま
すが 評価は上がらず後に千葉に大左遷 これで体調崩したらしくて五年後に病死しています
子孫は更に徳川時代に入ると一回勝利してしまったのが響いてリストラ 愛媛に流れたようですが
もうあとはうやむやです 遺骨安置場所も江戸時代に造成工事されてうやむやになっています
最近の言葉を使えば木曾は織田と武田の間にいるって段階で常人には無理ゲー
中学生の時 信州マニアの両親に木曾まで連れられてクルマで行った事があります
宿場町の旅館泊まって 木曽路の石碑見ていやスゴイ山地だなと驚いたのを覚えています
ほんと宇都宮って野っ原 中部や西国の人に見せたいくらい原っぱです
しかし北関東道どころか上信越道さえ無い時代に宇都宮から木曽だと 一度八王子まで出て
そこから中央道で中津川 帰りは中山道で松本まで行って軽井沢行ってそこから碓氷峠抜けて
群馬入って50号から奥州街道 約九十里を総て国道で帰宅なんだから何考えてたんだうちの親
話題が無いので親と行ったドライブの
愚痴話を
何かしらないけど信濃に行きたがるんです もう木曽だけじゃない 北関東道も上信越も
無い時代に10回は付き合わされてます 最悪は山形 勿論長野や山形そのものが良いとか
悪いとかじゃないんです 遠いんですよ まだ山形道が無い時代 せめて仙台まで出れば
良いのに何を思うのか会津から入っていくんです それもまた磐越道が無いんです
えっちらおっちら国道を徹夜で走るんです でまた景色でもあればいいのですが こんなの
もう山また山 山を越えて山 福島から入って寒河江まで延々 これ初めて途中で泣き入れ
たドライブでした さくらんぼが何で高いか子供心にも骨身にしみました で 私が免許取ったら
練習だってなって行った先が奥飛騨だっつったもん しかも越後側から入って鬼の国道7号
で飛騨に着いたら今度は安房峠で松本入り 当然安房トンネルなんかまだ開通前
(悲惨な峠道、と言うか間道 旧286号と争う次元 で松本からまた碓氷峠)
シルビア買った時は近場のナラシだなんて言われて行ったのが湯西川 本当に県内なのかと
言いたくなるような山の中 霧降峠の先に人界があるとは知らなかった 鹿肉食べて帰ってきた
んですがこれも参った 一般道延々で着いたら残雪だらけで カウンターが出来てない 何キロ
FR乗ってんだ なんて文句言われて
勿論ナビなど無し 全部地図と青看板
おかげで仙台~宇都宮を国道4号なんて屁みたいなものです ヒマなだけ
アクセラ時代 宇都宮から摂津大槻まで国道で行きました 中山道完徹の上に近江は安土経由
バカは遺伝しています あとは八王子から大菩薩峠抜けて甲斐とか 帰りは画伯亭に転がり
こんでいます 首都圏にあんな峠があるとは思いませなんだ
「もう無理( _ _) 暖かいご飯を出してあげよう( - -)」
手ぶらと言うところに切迫具合を感じて下さったのか歓待して頂きました いやお恥ずかしい
次は水を求めて貴方の玄関先に転がり込んでくるかも知れません
諸将方は一般道だけでどこからどこまで行った事ありますか?(^ ^)
Posted at 2014/04/26 20:22:49 | |
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