今回はいきなり解説から…
戦前の帝国大学を前身とする、東京大・北海道大・東北大・名古屋大・大阪大・京都大・九州大の7大学は「旧帝大」と呼ばれ、その当時から現在に至るまで、地域における最高学府と見られている事が多い。
しかしこれらの7大学の他に、当時日本領であった台湾の台北には「台北帝国大学」、そして朝鮮の京城(現在のソウル)には「京城帝国大学」が置かれており、合計9の帝国大学が存在していた。
但しこれらの2帝国大学は、文部省ではなく総督府の下に置かれるなど、他の帝国大学とは異なる形態であったものの、学生や教官の多数は日本人であるなど、必ずしも「現地住民向けの高等教育機関」とも言い難い状況であった。
(例えば1940年当時、台北帝国大学の学生数は、日本人238名、台湾人83名、朝鮮人2名と言った具合。)
戦後、台北帝国大学は中華民国に接収され、「国立台湾大学」と大学名を改め、また本土へと引き上げた日本人にかわり、学生や教官は台湾人が主となり、現在でも台湾の最高学府として存在し続けている。
また台北帝国大学当時の施設や蔵書などはそのまま国立台湾大学へと引き継がれており、国立台湾大学自身も台北帝国大学を前身とすることを公に認めており、公式にも「1928年設立の台北帝国大学を前身とする」とされている。
そして現在でも、旧・台北帝国大学当時の建物が改修を重ねつつも現役で使われていたり、あるいは歴史的建造物として保存・公開されているケースも多いのだが、今回はそうした建物を訪ねてみることにしたい。
なお余談になるのだが、一方の京城帝国大学は、その施設等はソウル大学校へ引き継がれているものの、ソウル大学校は公式には「1946年設立の新設校であり、京城帝国大学の後身ではない」としている。しかし部局レベルでは「京城帝国大学○○学部を前身とする」としていたり、京城帝国大学出身者の同窓会への入会を認めるなどの対応をしているケースもあり、事実上京城帝国大学を引き継いでいるという側面も否定できないのだとか。
とは言え、元々日本人向けの色合いが濃かった帝国大学だけに、その後身にあたる大学との連続性の有無を判断するのは難しいのだろう。
また終戦後に中華民国が直接接収して統治した台湾とは異なり、朝鮮の場合は大韓民国へ引き継がれる前に一度米軍の軍政を経ており、歴史的に見ても連続性があるとは言えないという側面もあるのである。
なお今回のブログをまとめるにあたって、劉子銘ほか「Hi! NTU 解読台大的82個密碼」(国立台湾大学出版)を参考文献としたほか、Wikipediaも参照している。
また本文中に引用している古写真は中華民国文化部が運営するウエブサイト「国家文化資料庫」
http://nrch.cca.gov.tw/ccahome/より、著作権保護期間が切れた画像を引用している。
またブログ上では、文字化けを防ぐ意味合いから、正確さを欠くことは承知の上で、「臺灣」「臺北」といった正字体では記載せず、全て「台湾」「台北」で統一している。
但し中国語表記を転記する際に、該当する日本語表記が存在しない場合に限り、オリジナルの表記を用いている。
(そのため環境によっては、その部分の文字化けが起きる可能性は否定できない)
今回のブログは、台北滞在中に訪れた旧・台北帝国大学関係のスポットをまとめて掲載しているため、それぞれのスポットの訪問日や訪問時間はバラバラであり、特に断りが無い場合は連続性はありません。
前回のブログで登場した台北賓館へ向かうために、最寄り駅のMRT台大病院駅に降り立つと…
目の前に台湾大学医学部の病院がドンと建っている。
特に事前に下調べしていたわけではなかったのだが…パッと見て日本統治時代の建物だとピンと来たので、外来患者に紛れてちょっとだけ見学してみることに。
後で調べてみると、この台大病院は1895(明治28)年に設置された台湾総督府台北病院を前身とし、この煉瓦造りの建物は1912(明治45)年に建てられたもので、台湾の気候を考慮し、湿気対策で高床式構造で作られているなど、見た目だけでなく機能面でも相当に力が入った建物である。
そして1938(昭和13)年に台湾総督府から台北帝国大学医学部へ移管され、付属病院となり、戦後はそのまま国立台湾大学へ引き継がれ、築102年を経た今でも主に外来患者の受付・会計といった機能を担っており、まさに病院の顔として現役で使用されている建物なのだとか。
ちなみに1932(昭和7)年に撮影された古写真がコレ
「台湾大觀」(日本合同通信社)より引用(詳細は前述)
正面から(画像加工あり)
内部へ入ると、まずは立派なホールがお出迎え
ホールに案内係のおばさんが居たので、英語とカタコトの中国語と身振り手振りで、「こんにちは。日本人なんだけど、建物の写真を撮っても良いですか?」と確認してみると、何とか意味が通じたようで、「どうぞどうぞ」と言ったようなゼスチャーでOKがでた。
(変なセリフになっているのは…私の語学スキルの問題)
とは言え、外来患者も多い病院なので、やはり遠慮がちに撮影。
まずは中庭を取り巻く廊下
往時の古写真と見比べても、同じ雰囲気であることが解る。
中華民国文化建設委員会が公開している写真を非商業用として引用(詳細は前述)
待合室
階段
そして和洋折衷な雰囲気の中庭
高床式の構造になっていることがよく解る
まあ元々思いつきでちょっと寄り道しただけで、そもそも建物自体が現役の病院施設ということもあり、ちょっとだけ見学して、早々に退散。
そして話は変わって、台北の高級住宅街「青田街」へ足を運んだときの話。
警備員が居るような高級な住宅が建ち並び、まるで阪急沿線の山の手のような雰囲気。
その一角に青田七六という施設が存在している
ちなみに所在地は青田街7-6…だから「青田七六」という安直なネーミング。
敷地内へと入ると、味のある木造住宅が…
実はこの建物、台北帝国大学の教員住宅として建てられたもので、その後も国立台湾大学に引き継がれたものの、老朽化もあって空き家となっていたところ、日本統治時代の建築物がブームとなったことから、修復が行われ、現在は日本食カフェとして使用されている。
そしてカフェの営業開始前の時間帯を利用して、週に3回程度館内のガイドツアーが行われており、今回はそのガイドツアーで館内を見学することにした次第。
ちなみにガイドツアーは無料だが、完全予約制。(人気があるようで満員の日も多い)
予約はWebから可能なのだが、全て中国語…しかし繁体字なので、比較的解りやすく、翻訳サイトの手も借りながら、何とか申込手続きを完了。
とは言っても、Web上のフォームから、日時を選んで、名前(ニックネーム可)を登録するだけという至ってシンプルな方式。
予約に関する注意事項としては、複数名の同時申込が不可能なので、1人ずつフォームを送信する必要がある事くらいだろうか。
あと見学時の注意事項として重要なのは、「文化財保護のため、必ず靴下を着用しなければいけない」点。但し現地でも良心的な価格で販売されているので、忘れていっても問題はないのだが。
あと私の経験で一つ書き加えておくとすれば…見ての通り、緑が多い地域なので、とにかく蚊が多いので、長袖・長ズボンあるいは虫除けといった対策を考えておく必要があるだろう。
そしてこの日の参加者は10人ほど。ガイドは中国語で行われるのだが、日本語のパンフレットも用意されている。
「まあパンフレットを見ながらついていけば、何とかなるでしょ」と思っていたのだが…
台湾における“いつものパターン”で、参加者が10人も居れば、中には日本語を話せる人が居て、何かと親切にフォローして下さり、全く問題なくツアーに参加することができたのである。
(コレをアテにしていてはいけない…と思いつつも、すっかり定番化してしまっているパターン^^;)
さて、先ずは建物の外観の見学から
和風に見えて、建具などの細かな造りは洋風だったりと、見事な和洋折衷ぶり。
で、参加者の興味を引いていたのがコレ
まあ日本人からすると、有り触れた「雨戸」なのだが…台湾では珍しいのか、ガイドさんがわざわざコレをクイズにして出題するほど。
そして石張りのテラス
カフェとして使用する関係上、屋根などを設けて冷房も入っているが、当時は当然素通し。
かつての庭の部分は、カフェ関係の施設が作られており、当時の風情は失われているが…
何でも、ここに住んでいた教授(北海道出身)が体の弱かった子息のためにプールまで作っていたのだとか。
そしてそのプールで使われていた煉瓦(「MITSUI」の焼き印入り)も展示されている。
そしてお勝手側は日本的な風情
続いて内部の見学
モダンな洋風の応接間
食堂
子供部屋
女中部屋
庭に面した廊下
その他、奥の座敷(床の間なども備えた和室)なども見学したのだが、残念ながら撮影のチャンスは無し。
そして歴代の住人(当然大学教授)関連の品も展示されており…
米軍の機銃掃射を受けた仏和辞書のほか、研究室のドアのノブが置かれているのだが、これは「このノブを触ることで、教授と間接握手が出来る」という趣向なのだとか(笑
そして見学ツアーが終わる頃には、ちょうどランチの営業が始まる時間。
「折角なので、ここで食事をしていこうかな」とも思ったのだが、メニューを見る限り「天ぷらうどん」や「トンカツ」といった和食中心で
(そりゃあ和風カフェなのだから当然なのだが)、何となく気が乗らずパスすることに。
こうして青田七六の見学は終了。
<つづく>次回は国立台湾大学のキャンパス内を徘徊(?)します