2013年12月20日
ちょっと前なら覚えちゃいるが、一年前だと・・・ あ、ゴホン!(汗
一週間のご無沙汰でした。 先週の宇崎竜童が今だに抜けない辛口おやじです(笑)
さて、クリスマスが近づいて来ました。
うちは特にクリスチャンという訳では無いのですが、それでもクリスマスにはケーキや七面鳥、
それにシャンパンなどを用意して、ちょっと豪華な夕飯などを楽しんだりなどいたします。
まあ、イエス様もうちでは八百万の神様のお一人といったところでしょうか(笑)
今回はこのクリスマスにちなんだ心暖まるお話を一つ紹介したいと思います。
富山県のある幼稚園での話。
幼稚園でサンタクロースに宛てた手紙をみんなで書くことになりました。
園児たちは思い思いにお願い事を書き、幼稚園が用意したトナカイのポストに入れていきます。
そんな中、一人の女の子がお願い事を決められず、手紙を家に持ち帰る事になりました。
家で「うーん」と悩んだ結果、女の子は手紙に「ペンダントをください」と書き、それをポストに
投函します。
ただ、女の子は大きな間違いをしてしまいました。
幼稚園のトナカイのポストではなく、本物の郵便ポストに手紙を入れてしまったのです。
しかし、話はそれだけでは終わりません。
女の子はかなりの心配性だったようで、本当にサンタさんに手紙が届いたのか、気になって
しかたがありません。
そして女の子は、毎日のようにサンタさんに宛てた手紙を書き、本物の郵便ポストに入れ続け
ました。
もちろん切手も貼っていないその手紙が、サンタさんに届くことはない ・ ・ ・ はずでした。
ところが、クリスマスイブの当日、女の子の家にサンタクロースは訪れました。
そして、たくさんのお手紙をくれた事へのお礼を述べ、女の子の希望通りペンダントをプレゼント
してくれたのです。
実はこの手紙は、この地域を担当する郵便局に集配され、大切に保管されていました。
毎日届くサンタさん宛ての手紙を見て、この郵便局の人たちは差出人として書かれた名前
から、女の子の身元を探し回ります。
そしてついに住所と名前が判明し、局長が女の子のお母さんに連絡。
そして、プレゼントを届けることになったのです。
郵便局の人たちの粋な計らいが、少女の夢を実現させたのでした。
おしまい。
いかがでしたか?
短いですけど、ほのぼのとした本当に良い話だと思いませんか。
なぜでしょうか、私などはこういう話を読むと目頭が熱くなるんです。
世の中こういう話でいっぱいになればいいんですけどね~(^-^)
では、また来週~

Posted at 2013/12/20 22:42:47 |
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良い話シリーズ | 日記
2013年11月08日
数日前に首をひどく寝違えまして、車をバックで車庫入れする時に首が上手く動かないもの
ですから、体を思いっきりひねりましたら今度は脇腹を痛めた辛口オヤジです(笑)やっぱ歳だわ・・・
さて、今回も心温まる良い話を一つ。
平成4年(1992)にスペインで行われたバルセロナオリンピックでの話です。
日本から3人の選手が参加した女子マラソンは18時30分にスタート。
猛暑と高い湿度、コースは高低差が激しく大変過酷なレースとなります。
20キロ地点を通過し、先頭集団は17人に絞られます。 日本人選手3人もその中にいました。
コースの途中数箇所に給水地点があり、選手は自分のドリンクを取って水分補給したり、頭から
被ったり、足にかけたりしながらレースを続けます。
空になったボトルはどうするか?
選手は全員、そのままコースに投げ捨てて先を急ぎます。
ところが、ただ一人コースを外れて道路の反対側まで走り寄って、空になったボトルを捨て、
再び集団まで戻ってくる選手がいます。
日本代表の有森裕子選手です。
TVでその様子を見ていた地元スペインのアナウンサーや解説者、そして視聴者たちは最初、
「あの選手は何をしているのか??」不思議に思ったそうです。
しかし、すぐに理解します。
有森選手は後続のランナーが空ボトルにつまずいて転倒しないように、わざわざ道路の端に
捨てていたのでした。
また有森選手は走りながら沿道の応援に向かって笑顔を返し、軽い会釈を送ります。
声援を送ってくれる方たちへの答礼でした。
30キロ地点、トップのロシアの選手と有森選手との差は56秒差。
そこから有森選手は猛烈な追い上げを見せ、36キロ地点でついに並びます。
その先は約6キロにわたる上り坂「モンジュイックの丘」になります。
二人はマラソン史上に残る熾烈な戦いを、そこで繰り広げます。
離されるか? いや、粘る! 抜けたか? いや、まだ付いてくる!・・・
そしてこの激しいデッドヒートの最中にも、有森選手は空ボトルをコースの端に捨てます。
結果、有森選手はトップと8秒差で2位となりました。
しかし彼女の素晴らしいマナーは多くのスペイン人に感銘を与えます。
スポーツは手段を選ばず、ただ勝てば良いというものではなく、その美しさも感銘を与えるもの
であることを多くの人に伝えました。
日本に帰ってから、有森選手が祝賀パーティーに参加したとき、出席者の一人が彼女の行為
を褒めたところ、「はあ? そうでしたか」と不思議そうな顔をしていたそうです。
彼女にとっては、意識して行ったわけではない、まして功名心や偽善者を装うつもりなんて
微塵もない、純粋な彼女のスポーツマンシップから出た行為でした。
それが世界に感銘を与えたのでした。

実は私、この話を知る前までは有森選手の事をあまり好きではありませんでした。
ガブちゃんをお婿さんにしたことは関係ありません(笑)
この次のアトランタオリンピックの時、3位でゴールした直後のインタビューで、確か「自分で
自分を褒めてあげたい」と言ったと記憶しています。
この言葉自体特に問題はないのですが、オリンピックでメダルを取るという事は個人の力だけ
では絶対に無理だと思うんです。
色々な面で自分をサポートしてくれた、或いは協力してくれた人たちが必ず居るはずですので
先ず、いの一番にその人たちへのお礼を言う。 やはりこれが筋だと思ったからです。
しかしこの話を知って少し気持ちが変わりました。
世界に感銘を与えた有森裕子選手、遅まきながらここに大和撫子認定です!
もちろんなんの権威もありませんが・・・(笑)
Posted at 2013/11/08 23:35:25 |
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良い話シリーズ | 日記
2013年10月26日
兵庫県尼崎市にあります「日本スピンドル製造株式会社」、この会社名をご存知の方は居られ
ますでしょうか?
今回の「良い話」はこの会社の方たちの話です。
2005年4月25日、JR福知山線で乗員・乗客合わせて107人の死者を出す大事故が発生します。
この「JR福知山線脱線事故」はマスコミでも大きく取り扱われ、過密なダイヤや運転士に対する
日勤教育の問題とともに、事故車両にJR西日本の職員が乗っていたにもかかわらず、救助活動
を行わなかった事や、連絡後に懇親行事がそのまま行われていた事なども問題視されました。
そんな中、事故現場の近くにあった、一つの会社がクローズアップされます。
日本スピンドル製造は、電車が激突したマンションから程近い場所に工場を構える会社です。
事故発生時、大きな衝撃音を耳にした社員達は、すぐに現場に急行します。
そして、大惨事の知らせを受けて現場を確認した当時の斎藤十内社長は、そのまま工場に引き
返し、すべての機械の操業をストップ。
300名近くいた社員を皆食堂に集めると、全力を挙げて救助活動にあたるように支持したのです。
製造業の方ならお分かりになると思いますが、工場の操業を止めることは、会社にとって大きな
損失だったはずです。
しかし斎藤社長は当然のように人命救助を優先しました。
励ましの声をかけ、バールやハンマーなど会社の工具を利用しながら負傷者を救出。
女子社員たちも制服を負傷者の血で真っ赤に染めながら救出介護にあたったそうです。
さらに救急車の到着が遅いことを知ると、社員達のマイカーや工場のトラックなどを使って病院へ
ピストン輸送しました。
彼らが救った人の数は130人以上といわれています。
その後、消防や警察のレスキュー隊が到着すると、専門家の足手まといになってはいけないと、
社員たちを速やかに引き上げさせたといいます。
それにしても見事な危機対応、見事な采配です。
現場で活躍した社員たちも、もちろん素晴らしいですが、私が注目したのはこの斎藤社長の決断
です。
リーダーたる者、その時その場で何をすべきか。 この方は本能的にわかっておられます。
先ず何といっても会社の利潤より人命救助を優先したことが素晴らしい。
実はこのあと、この会社の評判が広がり、受注数が増え、求人志願者が倍増し、株価も1.5倍
近くに上がったそうです。
斎藤社長の決断は、確かにその日一日だけを見れば、会社にとって損失でした。
しかし、トータルで見ればそれをはるかに上回る利益を会社にもたらしたのです。
事故に遭われた方々にとっても、早く救出されたことにより、命が助かった方も大勢いたはずです。
全てはトップの適切な判断によるものでした。
これがリーダーたる者の資質、昔で言う「徳」というものなのでしょう。
「人を守ってこそ自分も守れる。
己の事ばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!」
これは以前4月の終わり頃に紹介した、黒澤明監督の映画「七人の侍」の中に出てくる志村喬
さん演じるリーダーの島田勘兵衛の台詞です。
私の大好きな言葉なのですが、真の意味でもう一つ内容が掴めていませんでした。
しかし、今回のこの話や斎藤社長の振る舞いを見ると、おぼろげながら何か見えてくるような
気がします・・・。
う~ん、深いなぁ (笑)
以上。
Posted at 2013/10/26 00:11:39 |
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良い話シリーズ | 日記
2013年10月11日
毎日テレビや新聞、或いはネットといったマスメディアから沢山のニュースや情報が流れてくる
のですが、圧倒的に暗い事件や話題ばかりです。
マスコミも商売ですから、視聴率を考えた場合致し方ないのかといったとこでしょうか。
凶悪事件であればあるほど視聴率が上がるんだそうですね。
そんな暗い閉塞感のようなものを打破すべく始めた「良い話」シリーズも今回で3回目。
まあそんな大それたものでもありませんが・・・ (笑)
かつて、保守言論誌のコラム等に掲載され、心に響いた逸話などをボチボチ紹介させて頂いて
おります。
この世知辛い世の中、少しでも心温まれば幸いです。
今回「敵に塩を送る」といっても上杉謙信のことではありません(笑)
アメリカのフィギュアスケート選手、サーシャ・コーエンは、2002年に行われたソルトレイクシティ
オリンピックで、競技用のタイツを忘れるという重大なミスをしてしまいます。
当時のアメリカは2001年の同時多発テロの影響で厳戒態勢でした。
選手たちもカバンの中身を全部出して、チェックを受ける必要がありました。
彼女はチェックを受けるために競技用のタイツをカバンから取り出し、そのまま置き忘れてしまっ
たのです。
しかし、彼女が忘れ物に気づいたのは演技の直前、探すにも新しく手配するのにも時間はなく、
周りの選手たちに予備のタイツを貸して欲しいと頼みますが、誰も返事をしてくれません。
厳しいスポーツの世界ですから、仕方のないことだといえるでしょう。
ところが、困っている彼女の姿を見て、一人の選手がわざわざ自分の履いていたタイツを脱いで
彼女に差し出したのです。
それはフィギュアスケート日本代表の村主章枝選手でした。
そして、競技の結果はサーシャ・コーエン選手が4位で村主章枝選手は5位。
もしも、村主選手がタイツを貸していなければ、順位は変わっていたかもしれません。
この話は美談として、当時の地元の新聞などでも話題になったそうです。
そして、後にテレビのトーク番組に出演した村主選手は、コーエン選手からまだタイツを返して
もらっていない事に触れ、「早く返してください」と笑いながら語ったそうです。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ほんのちょっとの短い話でしたが、いかがでしたか?
オリンピックという世界一を争う最高の戦いの舞台。
そんな中でも相手に対する思いやりの心を忘れない ・ ・ ・
まさに武士道に通ずることだと思います。
村主章枝選手、ここに大和撫子認定です!
私が保証致します!
・ ・ ・ なんの権威もありませんが (笑)
以上。
Posted at 2013/10/11 21:52:33 |
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良い話シリーズ | 日記
2013年09月21日
昭和30年代、本田技研工業はスーパーカブなどの大ヒットを受け、新しい工場を開設すること
になりました。
どこに工場を作ればよいかと、日本全国にいくつかの候補地があげられ、各地を社長の本田宗
一郎氏自らが視察に回ったときの話です。
それぞれの候補地にとってみれば、大きな会社の工場を誘致することで税収や雇用など多くの
メリットが得られるわけで、当然各自治体とも彼に気に入られようと、用地の説明もそこそこに
接待ばかりに必死になったそうです。
そんな中、接待を一切せずに彼を出迎えた自治体がありました。
三重県の鈴鹿市です。
当時の市長は渋茶を一杯出しただけで、お茶菓子すら提供しませんでした。
サービスしたことといえば、真夏ということで汗をかいた彼に対して何度もおしぼりを提供した
ことくらいでした。
その代わり、あらかじめ本田技研が送った質問にはどこよりも懇切丁寧に回答してみせます。
さらに現地では、市の職員が土地の広さが分かりやすいようにと、真夏の炎天下の中、旗を
持って立っていてくれたのです。
市長が手を上げると一斉に旗が上がり、「これが○万坪」、再び手を上げると、また旗が上がり、
「これで○万坪」、という具合。 きわめて現場主義的な、そして何が最も大事なのかという「ツボ」
を押さえたプレゼンテーションであったそうです。
これが決定打となり、工場は鈴鹿市に建設されることになったのだそうです。
現在の本田技研鈴鹿製作所です。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
色々な場所を見るたびに本田宗一郎氏は、「工場の立地条件は、その土地、地元自治体の
人間性だ」と言っていたそうです。
接待ばかりを熱心に考えていた他の候補地を蹴ってこの鈴鹿市に決めたのは、本田宗一郎氏
が、市長の人間性、そして市職員の対応、つまりは「鈴鹿という土地の人間性に惚れた」という
ことなんでしょう。
名参謀として知られる当時の藤沢武夫常務も全く異議はなく、まさに即断だったそうです。
ここで本田宗一郎氏のエピソードを二つ。
・ 氏が経営の現役を退いた直後に感謝を伝えるために各工場を回ったときのこと。
現場で工員に近づいて握手の手を出すと、自然に油まみれの手を出そうとしてしまう人がいま
した。 彼が気がついて油を拭こうとすると、宗一郎氏がこう言いました。
「いや、いいんだよ。その油まみれの手がいいんだ。俺は油の匂いが大好きなんだ」
こう言って構わず手を握ったそうです。
・ 氏が栃木工場を訪れると、「選ばれしものが作ったNSX」という展示があり、この車をつくる
ために選ばれた人たちの写真が飾ってある部屋がありました。
そこへ案内された宗一郎氏が怒って、こう言ったそうです。
「全従業員の写真、いや、食堂のオジさん、トイレ掃除のオバさんの写真はどこにある!」
「彼らオジさん、オバさんのおかげで、皆んな気持ちよく仕事ができている。 なのに一部の人間
だけを写真にして飾るとは何事だ!」
まさに昭和の人ですね。
お陰さまでの心、この塊のような方でした。
(うちの社長もこうなら、もっと会社発展するのになぁ・・・ あっ、ゴホン!)
・・・あれ、なんでぇ、トヨタ乗りがホンダかょ~って?
いえいえ、私には語る資格があるんです。
下の画像をご覧下さい。

うちの軽トラ、代々ホンダのアクティですから!
チャンチャン♪
Posted at 2013/09/21 17:01:53 |
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