一週間のご無沙汰でした、冬は比較的温暖なしぞーかですが、
迷わずコタツでみかん派の辛口おやじです。
「歴史の話」といっても教科書のような堅っ苦しくつまらないことを
書くつもりはありません。
過去の歴史の話には現在に生きる我々が読んでも「なるほど」と
思うことや、「良い話」、さらには「目からウロコ」の話などが沢山埋
もれているものです。 いや、宝庫といってもいいと思います。
過去にあった歴史を、私・辛口おやじが私見を織り交ぜながら、時には歴史学界へ挑戦状を叩き
付ける覚悟で書いてみたいと思っておりますので、興味のある方はヨロシク♡(笑)
昨年のNHKの大河ドラマは軍師勘兵衛でしたね。
私は残念ながら所々しか観ませんでしたが、その中で最後の方だと思いますが「関ヶ原の戦い」と
いうのが出てきたと思います。
西暦1600年、豊臣秀吉死後の政権を巡り、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする
西軍が決戦を行ったわけですね。
「天下分け目の戦い」とも呼ばれています。
西軍の中心人物に大谷吉継という武将がいます。
吉継は非常に有能な武将で、越前・敦賀城主に任命され、「吉継に百万の兵を与え存分に戦わ
せてみたい」、と言わせしめるほど秀吉からの信頼も厚い人でした。
しかし、彼は不幸にも重度の皮膚病に侵されてしまいます。
現在でいうハンセン病という病気だったといわれています。
体の自由が利かなくなったうえに皮膚もただれてしまったため、顔は常に頭巾で隠していたといわ
れています。
ある日、吉継は秀吉の茶会に招かれます。
秀吉の誘いでは断るわけにもいかず、病の体を押して出席しました。
しかし秀吉が立てた茶を作法どおりに飲み、次の武将に渡そうとしたときに事件は起こりました。
抑えられなかった彼の膿が湯呑の中に一滴落ちてしまったのです。
茶会に出席していた他の武将たちは彼の病気のことを知っていました。
普段でも彼から回ってきたお茶は飲むふりをする人も多かったといいます。
今回はさらに膿入りです。
その場の空気は凍りつきました。
その時です !
「 いやぁ、喉が乾いてたまらぬ ! 大谷殿、 それを私に 」
ある男がそう言って湯呑みを受け取ると、一気に膿入りのお茶を飲み干したのです。
それは当時の佐和山城主・石田三成でした。
結果、吉継は秀吉やその場の武将たちの前で恥をかかずに済みました。
二人は少年時代からの友人でしたが、この件でより固い友情で結ばれます。
関ヶ原の戦いで、西軍は小早川秀秋の裏切りによって一気に劣勢に追い込まれます。
すぐ隣に陣を張っていた大谷吉継は目の前の敵だけでなく、小早川の軍勢まで相手にしなければ
ならなくなりました。
しかし、吉継は石田三成のためにあきらめる事はせず、わずか千五百ほどの手勢で一時的ながら
二万を越える敵軍と互角に戦います。
しかし最後は敵に追い込まれ、潔く自害することを選んだということです。
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一般的にこういった昔の美談は作り話が多いのですが、私はこの話は事実であったと思ってます。
なぜなら、大谷吉継自身が
負けると分かっていながら西軍に付いたからです。
つまり関ヶ原の戦いは最初から勝負は見えていた, と。
これを言うと戦国時代ファンの方々からお叱りを受けるかもしれませんが、私は断じて言い過ぎで
はないと思っています。
当時の軍勢の状況は徳川方の東軍が約8万5千。
対する石田方の西軍は約11万5千であったといわれています。
さらに秀吉の嫡子である豊臣秀頼も西軍にいます。
数の上でも大義名分の上でも西軍が絶対有利であるはずでした。
ところが・・・です。
蓋を開けてみれば、西軍の総大将格でもある毛利秀元は全く動かず、長宗我部や島津も動かず、
さらに前述のとおり小早川秀秋にいたっては東軍に寝返るという始末・・・
天下分け目といいながら僅か半日で決着が付いてしまうわけです。
秀吉子飼いの精鋭、福島正則や加藤清正らが石田三成を嫌って東軍へ付いたということもありま
すが、やはり東軍の徳川家康という絶対的なエースの存在、これが非常に大きかったと思います。
なにしろ当時255万石。他を圧倒する巨大戦力の上に深慮遠謀、一般的に狸親父のイメージがあり
ますが、幼少の頃から今川・織田の人質として辛酸を舐め、信長の天下統一の際にも常に最前線
で命を張って戦ってきた、いってみれば百戦錬磨の怪物なのです。
時は応仁の乱から百数十年続く戦国の時代。
しかも下克上がまかり通る秩序無き混乱の時代でもありました。
時勢に疎くては生きていけない時代だったのです。
誰が見ても次の天下は徳川だったということですね。
だから毛利も長宗我部も動かなかったし、小早川にいたっては親戚にもかかわらず東軍に寝返り、
徳川に恩を売ることを考えたわけです。
大谷吉継も当初は東軍に付くつもりでした。
しかし「死」を覚悟で西軍に付いたのは、私はやはりあの時の茶会の一件にあるのではないかと
思うのです。
あのことで、石田三成に一生の恩を感じたのでしょう。
つまり 「三成のためなら死ねる」、と思ったのではないか。
日和見や裏切りが相次いだ西軍の中で、吉継が義に厚い名将として後世に名を広く残した理由は
ここにあるわけですね。
いかがでしたか? 大谷吉継と石田三成の話。
ん? 誰ですか、居眠りしているのは! (笑)