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辛口レビンのブログ一覧

2015年02月15日 イイね!

歴史の話 3

歴史の話 3
冬はコタツでみかん派の皆様今晩は。

辛口おやじの歴史の話シリーズ。 今回は秀吉の謎に迫ってみたいと

思います。

豊臣秀吉といえば歴史に興味のない方でも知らぬ人はいないでしょう。

特に大阪では「太閤はん」の名で今でも抜群の人気だそうですね。

一介の百姓から天下人へ。 有史以来日本で一番出世した男と言って

もいいと思います。 当然それだけ多くの謎があることも事実です。

今回は辛口おやじが独断で秀吉の数ある謎の一つに迫ってみたいと思います。



皆さんは織田信長がこの秀吉のことを何と呼んでいたかご存知ですか?


一般的には「サル」と呼んでいたとされ、時代劇や大河ドラマ等殆どがこの説を採用していますね。

これは信長本人が直接そう呼んだという記録はないものの、当時やその後の江戸時代の文献など

で、恐らくそう呼んだであろうという推測のもとによる呼び名です。

一番しっくりくるポピュラーな呼び名と言っていいでしょう。

そしてもう一つが「ハゲネズミ」という説。

これは実際に信長自身が秀吉の妻である「おね」へ宛てた書状の中に書かれている呼び名です。



さてどちらが正しいのでしょう?



実はどちらでもない可能性が高いのです。



先に結論から言いましょう。


答えは「六つ」です。


何故か?


ご存知の方も居られるでしょう。

実は秀吉の右手の指は6本あったのです。

多指症というもので、親指が2本あったのだそうです。

当然不名誉なことですので、どうやら秀吉は生前この事が書かれたものを焚書(集めて焼き捨てる)

にしているようです。

どこで分かったのかというと、秀吉の盟友・前田利家の前田家に伝わる「国祖遺言」からです。

この中に秀吉の右手の指は6本あり、信長公は秀吉のことを「六ツめ」と異名されていたと書かれ

ているのです。

さらに当時のポルトガルの宣教師であったルイス・フロイスの書にもこのことが書かれており、本国

へも伝えられています。





指が6本あろうがなかろうが、そんなことは大したことじゃないじゃんて?


いやいや、とんでもない!


私はこのことが秀吉という人間を形成した最たるものだと思っています。

つまりこれが無かったら秀吉という天下人は存在しなかったと言っても過言ではないと思うのです。

歴史学界はこういったことを殆ど問題にしません。

学界の一つの欠陥といってもいいと思います。

まず秀吉がなぜ信長に仕えることになったのか? その前になぜ近づけたのか?

ここから既に謎なわけですが、それに対する研究が殆どなされていないのが現状です。

どこの馬の骨とも分からない秀吉がなぜ守護代の織田家に使えることができたのか。

一つは新しいものや珍しいものが大好きな信長の性格によるものと考えます。

要するに珍獣扱いで召抱えられたというわけです。 

そしてもう一つは秀吉自身がそれを知っており、積極的に自らの体の奇形を利用して信長に取り

入ったのではないかと思うのです。





秀吉の右手の指が6本あったのは分かった。 しかし「おね」への書状にあるハゲネズミはどうなる

のだ?という意見もあるでしょう。

答えは簡単。

おねが秀吉の妻であり異性だからハゲネズミなのです。

例えばあなたに部下が居るとして、その奥さんに手紙を渡すと考えてみてください。

旦那の身体的欠陥など絶対に書かないでしょう。

おそらくあだ名でも書かないと思います。

もうお分かりですね。

信長だからハゲネズミと書いたわけです。



信長が秀吉のことを「六つ」と呼んでいたことが真実だったとしても、この現代において映画やテレビ

の時代劇などでそう呼ぶことは100%無いといっていいでしょう。

なぜならこの六つという言葉が差別用語に当たるからです。

私が子供の頃、故・勝新太郎さん主演の「座頭市」という映画をよく放送していたものです。

ところがここ何十年か全く見なくなりました。 というより民放で放送しなくなりました。

ご存知のように座頭市は目が見えません。

目の見えない人のことを昔は「めくら」と言いました。

これが差別用語に当たるわけです。

今は目の不自由な人と言わなければいけないのだそうです。

悪役が座頭市に向かって、「このドめくらが!」と言うセリフがNGということですね。

それではと、「この目が不自由なヤローが!」では映画として成立しませんよね。

かつて90年代でしたか、この差別用語の言葉狩りの嵐が吹き荒れた時代があったのです。

昔は例えば耳の悪い人のことを「つんぼ」、片足の悪い人のことを「ちんば」、などと普通に言って

いたものでしたが、当事者に配慮して「~の不自由な人」と言わなければならないとされたわけで

す。 当時売れっ子作家だった筒井康隆さんが表現の自由の観点からそれに抗議して断筆宣言

をしたのはよく知られています。 

あの時は確か「てんかん」という言葉が差別に当たるということだったと思います。

「~が不自由な人」といちいち書いていたのでは話にならない、小説なんか書いてられないという

ことだったのでしょう。





差別用語に当たるから使わない、或いは無視をするというのは我々一般人はともかく、歴史学界

がその人なりを研究する場合、やはりそれでは事の本質を見誤ることになると思うのです。

つまり間違った態度であるということです。

秀吉に話を戻しますと、やはり6本指のことで幼少の頃から周りに奇異な目で見られることを逆に

反骨心にし、時には利用しながら天下人への出世街道を駆け上がっていったのではないかと。

身体的欠陥によるコンプレックスがバネになるというのはよくある話で、野口英世しかり、難聴だっ

たエジソンしかり、ヘレンケラーなど言うまでもありません。



日本の歴史学界で秀吉の6本の指に触れたものは殆どありません。

秀吉本人がそれらのことが書かれた本を焚書にしたこともあり、史料が極端に少ないことを考え

れば仕方のないことかもしれませんが、秀吉本人を研究する場合、真実と分かっている以上もっと

重要に取り扱わなければならないのではないかと思うのです。






今回は秀吉の謎についてほんの少しですが触れてみました。

秀吉には「羽柴秀吉」という名前や「朝鮮出兵」などまだまだ沢山の謎がありますので、またいずれ

書くつもりでおりますが、最後に一言。


信長・秀吉の時代をなぜか「安土桃山時代」と言いますが、桃山の地名が表舞台に立ったことは

ありません。


私自身は「安土大阪時代」

と言うべきだと思っていますが皆さんはいかがでしょう?


































Posted at 2015/02/15 19:12:30 | トラックバック(0) | 歴史の話 | 日記
2015年01月25日 イイね!

歴史の話 2

歴史の話 2 
  一週間のご無沙汰でした、冬は比較的温暖なしぞーかですが、

 迷わずコタツでみかん派の辛口おやじです。


 「歴史の話」といっても教科書のような堅っ苦しくつまらないことを

 書くつもりはありません。

 過去の歴史の話には現在に生きる我々が読んでも「なるほど」と

 思うことや、「良い話」、さらには「目からウロコ」の話などが沢山埋

 
もれているものです。 いや、宝庫といってもいいと思います。

過去にあった歴史を、私・辛口おやじが私見を織り交ぜながら、時には歴史学界へ挑戦状を叩き

付ける覚悟で書いてみたいと思っておりますので、興味のある方はヨロシク♡(笑)




 昨年のNHKの大河ドラマは軍師勘兵衛でしたね。

私は残念ながら所々しか観ませんでしたが、その中で最後の方だと思いますが「関ヶ原の戦い」と

いうのが出てきたと思います。

西暦1600年、豊臣秀吉死後の政権を巡り、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする

西軍が決戦を行ったわけですね。

「天下分け目の戦い」とも呼ばれています。


西軍の中心人物に大谷吉継という武将がいます。

吉継は非常に有能な武将で、越前・敦賀城主に任命され、「吉継に百万の兵を与え存分に戦わ

せてみたい」、と言わせしめるほど秀吉からの信頼も厚い人でした。

しかし、彼は不幸にも重度の皮膚病に侵されてしまいます。

現在でいうハンセン病という病気だったといわれています。

体の自由が利かなくなったうえに皮膚もただれてしまったため、顔は常に頭巾で隠していたといわ

れています。





ある日、吉継は秀吉の茶会に招かれます。

秀吉の誘いでは断るわけにもいかず、病の体を押して出席しました。

しかし秀吉が立てた茶を作法どおりに飲み、次の武将に渡そうとしたときに事件は起こりました。

抑えられなかった彼の膿が湯呑の中に一滴落ちてしまったのです。

茶会に出席していた他の武将たちは彼の病気のことを知っていました。

普段でも彼から回ってきたお茶は飲むふりをする人も多かったといいます。

今回はさらに膿入りです。

その場の空気は凍りつきました。



その時です !




 「 いやぁ、喉が乾いてたまらぬ !  大谷殿、 それを私に 」




ある男がそう言って湯呑みを受け取ると、一気に膿入りのお茶を飲み干したのです。




それは当時の佐和山城主・石田三成でした。


結果、吉継は秀吉やその場の武将たちの前で恥をかかずに済みました。

二人は少年時代からの友人でしたが、この件でより固い友情で結ばれます。





関ヶ原の戦いで、西軍は小早川秀秋の裏切りによって一気に劣勢に追い込まれます。

すぐ隣に陣を張っていた大谷吉継は目の前の敵だけでなく、小早川の軍勢まで相手にしなければ

ならなくなりました。

しかし、吉継は石田三成のためにあきらめる事はせず、わずか千五百ほどの手勢で一時的ながら

二万を越える敵軍と互角に戦います。

しかし最後は敵に追い込まれ、潔く自害することを選んだということです。



  ・     ・     ・     ・     ・     ・     ・     ・     ・     ・



一般的にこういった昔の美談は作り話が多いのですが、私はこの話は事実であったと思ってます。

なぜなら、大谷吉継自身が負けると分かっていながら西軍に付いたからです。

つまり関ヶ原の戦いは最初から勝負は見えていた, と。

これを言うと戦国時代ファンの方々からお叱りを受けるかもしれませんが、私は断じて言い過ぎで

はないと思っています。

当時の軍勢の状況は徳川方の東軍が約8万5千。

対する石田方の西軍は約11万5千であったといわれています。

さらに秀吉の嫡子である豊臣秀頼も西軍にいます。

数の上でも大義名分の上でも西軍が絶対有利であるはずでした。


ところが・・・です。


蓋を開けてみれば、西軍の総大将格でもある毛利秀元は全く動かず、長宗我部や島津も動かず、

さらに前述のとおり小早川秀秋にいたっては東軍に寝返るという始末・・・

天下分け目といいながら僅か半日で決着が付いてしまうわけです。

秀吉子飼いの精鋭、福島正則や加藤清正らが石田三成を嫌って東軍へ付いたということもありま

すが、やはり東軍の徳川家康という絶対的なエースの存在、これが非常に大きかったと思います。

なにしろ当時255万石。他を圧倒する巨大戦力の上に深慮遠謀、一般的に狸親父のイメージがあり

ますが、幼少の頃から今川・織田の人質として辛酸を舐め、信長の天下統一の際にも常に最前線

で命を張って戦ってきた、いってみれば百戦錬磨の怪物なのです。

時は応仁の乱から百数十年続く戦国の時代。

しかも下克上がまかり通る秩序無き混乱の時代でもありました。

時勢に疎くては生きていけない時代だったのです。

誰が見ても次の天下は徳川だったということですね。

だから毛利も長宗我部も動かなかったし、小早川にいたっては親戚にもかかわらず東軍に寝返り、

徳川に恩を売ることを考えたわけです。


大谷吉継も当初は東軍に付くつもりでした。

しかし「死」を覚悟で西軍に付いたのは、私はやはりあの時の茶会の一件にあるのではないかと

思うのです。

あのことで、石田三成に一生の恩を感じたのでしょう。

つまり 「三成のためなら死ねる」、と思ったのではないか。

日和見や裏切りが相次いだ西軍の中で、吉継が義に厚い名将として後世に名を広く残した理由は

ここにあるわけですね。




いかがでしたか? 大谷吉継と石田三成の話。




ん? 誰ですか、居眠りしているのは! (笑)

















Posted at 2015/01/25 17:53:29 | トラックバック(0) | 歴史の話 | 日記
2014年05月03日 イイね!

歴史の話


 

 一週間のご無沙汰でした、辛口おやじです。


皆さんは歴史というものに興味がありますでしょうか。

実は私歴史大好き人間でして、まあ興味の無い方にとってはつまらない話でしょうが、どうせ自己満

足の世界ですので今回は勢いでイカせてもらいます(笑)


うちの近くにこんな所があります。





代官屋敷・黒田邸です。


     「越後屋、お主もワルよのぉ」


     「いえいえ、お代官様ほどでは、、、」


     「わっはっはっはー」


時代劇に出てくる代官というと、大概このような悪役ですよね。

天井裏に風車の弥七が潜んでいることも知らずに悪徳商人から便宜の為にワイロを貰い、悪知恵を

働かせ、グルになって法外な年貢を要求し農民を苦しめ私腹を肥やす、というイメージですね。

年貢を出せなければ娘を差し出せ!とかね。

あとで助さん格さんにこっぴどく痛めつけられ、黄門様にしょっぴかれるというのはお決まりのパター

ンではないでしょうか(笑)

私一度この悪代官の役をやってみたいんですけどね~

私にピッタリだと思うんですけど(笑)

とにかく江戸時代の農民達は自分たちが作る白いお米を満足に食べられず、稗や粟しか口にする

ことができず、ひたすら悲惨だったというイメージですよね。

歴史の教科書にもそんなニュアンスで書かれていたような気がします。


でもこういう話って実は全くのデタラメなんだそうですね。

この話がウソであることは簡単な数学で証明できるんだそうです。




雨でもレビンです。  うちは特別扱いはしません(笑)


江戸時代の日本の人口はおよそ2千万人だったそうです。

これは寺の過去帳を調べれば大体の数字がわかるんだそうです。

そしてお米の収穫高ですが、これが2千万石だったのだそうです。

1石という単位ですが、これは平均して一人の人間が一年間に食べるお米の量で、1反で収穫でき

る量です。 1反とは広さにして300坪。

現在だとおよそ8俵、当時で4~5俵くらいでしょうかね。

昔は今よりおかずが無い分お米をたくさん食べたんですね。 一日4食だったりしたようです。

カロリーが低いのでちょっと働くと直ぐにお腹が空いたようです。




2千万人の人口に対して2千万石の収穫高ということです。

ピッタシカンカンなわけですね。

例えばこれがお金であれば一人の人間がいくらでも浪費できるわけですが、お米は食べ物ですから

人の胃袋の中にしか収まりがつかないわけです。

中には二人前三人前食べる人も居ますが、逆に少食の人も居ます。 また子供も居るわけです。

ほか、お酒やその他の原料に使うといってもその量はたかが知れています。

さらに当時は鎖国をしていましたから、外国へ輸出ということもありませんでした。

江戸時代は人口の9割近くが農民といわれていますから、その9割の農民がみんな稗や粟ばかり

食べていたらどうなるか想像してみてください。


おそらく「とてつもなく大量の米が余った」であろうということです。


もちろん年貢として差し出した米を逆に高く買わされていたりしたかもしれません。

しかし巡り巡って結局はみんなの胃袋の中に入った、、そう考えるのが一番自然ということなわけで

す。 

先程も言いましたが食べ物というのは、人の胃袋の中にしか収まりようがないわけです。


当時は玄米でしたから厳密に言えば確かに「白い米」は年に何回も食べられなかったかもしれませ

んが(笑)

ただし、玄米というのはビタミン・ミネラルなど様々な栄養素を含んでおりまして、一つの完全食品に

近いんだそうですね。

今のように白く精米してしまいますとその殆どを失い、ただの炭水化物になってしまうのだそうです。

今の飽食の時代、パサパサで不味くて食えませんけどね(笑)




では何故このようなウソのイメージが広がったのか?

一つには次の明治政府による宣伝、いわゆるプロバガンダですね。

自分たちの政府の正当性を高めるため、江戸時代はこんなに悲惨だったと宣伝したわけです。

二つ目は戦後教育ですね。 左翼の階級闘争史観による見解ということです。

支配者階級は常に悪で、一般市民は善という歪んだ見方ですね。

あとは時代劇の作り方と見すぎでしょうか(笑)



ということで、あれっ? 悪代官の話はどこへいきました?(笑)

ちなみにこの代官屋敷は現在も子孫の方が住んで居られまして、昔の町制の時の初代町長や平成

の大合併時の最後の町長をご当主が務められたりして、地元の住民の方々からは今現在でも「お

代官様」と呼ばれ親しまれております。

敷地内には小さいですが資料館があり、昔の槍や弓矢、甲冑などが展示されております。

また屋敷に沢山の梅の木が植えられておりまして、毎年2月にはささやかな梅まつりが行われちょっ

としたにぎわいになります。




以上、取り留めのない話になりましたがこの辺で。


江戸時代から続く農家の跡取り、辛口おやじの「歴史の話」でした~


                        (少し書き足りなかった分を補足致しました)









Posted at 2014/05/03 20:29:01 | トラックバック(0) | 歴史の話 | 日記

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「驚いたね~ まさか当選するとは思わなかったなぁ。それに「私自身、必要な説明をし、公私のラインを引かせていただいた。一定の信託はいただいたと思う。」って・・・
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