
先日芥川賞が発表されました。
それに因んでというわけではないですが、今回は以前読んだ本
の中から興味深い作品を紹介いたしましょう。
少々難しい話になりますので、お時間が取れて尚且つじっくりと
腰を据えて読めるという方はどうぞ。 読む人それぞれの嗜好
にもよりますが、私自身は非常に面白い話であると思います。
それにしても、見よ ! このタイトル画像を ! 芥川龍之介 !!
みんカラの格調を一気に押し上げるようなカッコ良さぢゃないですか ! (笑)
さて、芥川龍之介といえば誰もが知っているのが 「蜘蛛の糸」 という短編小説。
内容はご存知だと思いますので、特にここでは触れませんが、龍之介の小説には他にも色々と
興味深い作品がありまして、その中で今回紹介するのは 「神神の微笑」 という作品。
この作品には我々日本人の”本質”とは何か、或いは日本人を形成する”根本原理”とは何か、と
いったようなものが描かれている気がしますので、今回取り上げてみました。
内容は、戦国時代にキリスト教を広める為に日本にやって来たイエズス会のオルガンティノ神父が
日本の”神”と問答するという物語です。 このオルガンティノ神父は実在の人物ですが、内容はも
ちろんフィクションです。
では、一部抜粋して紹介を。
今宵は辛口爺が、あなたを芥川龍之介の世界に誘いましょう (^^)
『 神神の微笑 』 芥川龍之介 1922(大正11)年
オルガンティノは言う。
「南無大慈大悲の泥烏須(デウス)如来 ! 、私はリスボアを船出した時から、一命はあなたに
奉つて居ります。 ですから、どんな難儀に遭つても、十字架のご威光を輝かせる爲には、一
歩も怯まずに進んで參りました。 これは勿論私一人の、能くする所ではござひません。 皆
天地の御主、あなたの御惠みでござひます。
が、この日本に住んでゐる内に、私はおひおひ私の使命が、どのくらい難ひか知り始めました。
この國には山にも森にも、或ひは家家の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。
さうしてそれが冥冥のうちに、私の使命を妨げて居ります。 さもなければ私はこの頃のやうに
何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまふ筈はございますまい。
ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。 が、兎に角その力は、丁度地下の
泉のやうに、この國全體へ行き渡って居ります。」
そのように嘆くオルガンティノの前に、この國の霊(神)が現れる。
「誰だ、お前は !?」
不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まつた。
「私は、 … 誰でもかまひません。 この國の靈の一人です。」
老人は微笑みを浮かべながら、親切さうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きませう。 私はあなたと暫くの間、御話しする爲に出て來たのです。」
オルガンティノは十字を切った。
が、老人はその印に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は惡魔では無いのです。 御覧なさい、この玉やこの剣を。 地獄の炎に燒かれた物なら
こんなに清淨ではない筈です。 さあ、もう呪文なぞを唱へるのはおやめなさい。」
オルガンティノはやむを得ず、不愉快さうに腕組をしたのち、老人と一緒に歩き出した。
「あなたは天主教(キリスト教)を弘めに來てゐますね、… 」
老人は静かに話し出した。
「それも惡ひ事ではないかも知れません。 しかし泥烏須(デウス)もこの國へ來ては、きつと
最後には負けてしまひますよ。」
「泥烏須は全能の御主だから、泥烏須に、… 」
オルガンティノはかう云ひかけてから、ふと思ひついたやうに、何時もこの國の信徒に對する丁寧
な口調を使ひ出した。
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
「所が實際はあるのです。 まあ、御聞きなさい。」
さう言って老人は、支那の孔子や孟子の教え、また印度の釈迦の教えも結局この國の中では変
質してしまつたと述べ、「泥烏須のやうにこの國に來ても、勝つものはない」と断言する。
これに對して、オルガンティノは、今日も侍が二、三人キリスト教に入信したと反発する。
老人は穏やかに言う。
「それは何人でも帰依するでせう。 ただ帰依したと云ふ事だけならば、この國の土人の大部
分は悉達多(シッタルタ・釈迦)の教えに帰依してゐます。 しかし
我我の力と云ふのは、破壊
する力ではありません。 造り變へる力なのです。」
老人は最後に小声で言ふ。
「事によると泥烏須自身も、此の國の土人に變るでせう。 支那や印度も變つたのです。 西
洋も變らなければなりません。 我我は木木の中にもゐます。 淺い水の流れにもゐます。
何処にでも、又何時でもゐます。 御氣をつけなさい。 御氣をつけなさい。… 」
以上、抜粋終わり。
芥川龍之介の「神神の微笑」の大筋でしたが、何か感じるものがあったでしょうか ?
”破壊する力ではなく、造り変える力”
外国から入って来る宗教等に対し拒絶や破壊をするのではなく、造り変えて容認することによって、
いかなる神であってもやがては八百万の神の一つに取り込まれていく。
釈迦、孔子、孟子、強力な一神教であるキリスト教も例外ではありません。
最初にも書きましたが、日本という国の文明の本質や根本原理といったものが見事に表された作
品だったと思います。
芥川龍之介は晩年深くキリスト教に傾倒し、自殺した時の枕元には聖書が置かれていたそうです。
それが故に、この国が持つ不思議な力に気付いたのではと言われています。
これは何も宗教だけに留まらないと思います。
外国から入って来たありとあらゆるものが噛み砕かれ、日本流に作り直され、本家を凌ぐまでに進
化させてしまうというのはよくご存知だと思います。
世界の有色人種の国々の大多数が貧困に喘ぐ中、何故日本だけが発展・繁栄できているのか。
何故日本だけが先進国で有り続けているのか。 私はその理由もこの作品の中に描かれた通り、
この国だけに見られる強力な
”造り変える力”にあるのではないかという気がしています。
というわけで、今回は芥川龍之介の世界にちびっと足を踏み入れてみましたが、如何でしたか ?
え ? 何 ?
どこが哲学的なんだって ?
いやいや、イメージ、イメージ (笑)
実は哲学とは何であるのか ...
書いてる本人がまるで解かっていないという (爆)