
現代の日本人が忘れつつある大切なものを無理やり呼び
覚ます「良い話」 シリーズ (笑)
今回は”行商のおばちゃん”の話です。
かつて我々が子供だった昭和の時代、どこの町にも行商
を生業にされていたおばちゃんがいました。
自分の体よりも遥かに大きな荷物を背負いながら各戸を
周り、野菜や鮮魚を売り歩く姿を覚えておられる方も多いことでしょう。
もうとうの昔に絶滅したであろうこの「行商のおばちゃん」ですが、実はあの時代から現在に至る
まで延々と続けてきておられる方がいるのです。 しかも東京・銀座のど真ん中でです。
その方とは上のタイトル画像に写る方で、茨城県の石山文子さんとおっしゃる方。
今回はその石山さんの話です。
ではさっそく紹介いたしましょう。
2年ほど前のNEWSポストセブンその他からの引用です。
「 待っている人がいるからやめらんねえ 」
東京銀座には、”おばちゃん”と呼ばれて親しまれている有名人がいる。
61年にもわたって行商を続けている石山文子さん(84才)だ。 石山さんは毎日、茨城県から
1時間半電車を乗り継ぎ、銀座の街へとやってきては、地元農家でとれた野菜や地元鮮魚店
の魚を売っている。
石山さんの起床は午前4時。 支度を終えると、自分の体より大きなかごを背負い、自転車で
県境を越えて千葉県我孫子市の布佐駅へ向かう。
乗る電車は決まって5時51分発上野行きだ。
朝7時4分、地下鉄・東銀座駅に到着。
石山さんは、首にかけた手ぬぐいで汗をぬぐうと、シートに商品の陳列を始めた。
この日は、採れたての野菜の他に、アジ、まんじゅう、嫁が漬けたきゅうりが並んだ。
7時10分に営業開始。 すると開店を待っていたかのように、レストラン経営の男性が自転車
でやって来た。 10年来の常連客で自宅用の食材を購入している。
石山さんが笑顔で迎える。
「おはよう。今日はね、トマトがおいしいよ」
「じゃー、それちょうだい。 おばちゃんおいしそうなの選んでよ」
「ハハハ、どっこいしょ」
石山さんは立ち上がり、少し大きめのトマトを袋に入れていく。
「あとアジもおいしいから買っていってよ」
「(笑い) わかった」
会計は1200円。 男性は 「ちょっと細かいけど」 と言って、千円札と五十円玉4枚を渡す。
「あー、ちょうど五十円玉が欲しかったの。 いつもありがとね」
おばちゃんの元には、いろいろな客が訪れる。 サラリーマンやOL、銀座に住む主婦、時には
外国人観光客も。 とび職風の大柄な若者は、黙って代金を置いてトマトを掴んでいった。
「一度もしゃべったことないけど、毎日来てくれるんだよ」 と石山さん。
開店から2時間後の9時10分、商品は完売した。 石山さんは、また1時間半かけて、茨城の
家まで戻る。 電車内では疲れて寝てしまうことが多い。
いつまで続けるのだろうか。
「やめらんねえよ。 おれをこうやって待ってくれる人がいるからね。 1日でも休むと、”おば
ちゃん、どうしたの ? 大丈夫 ?”って言われちゃうから」
石山さんが行商を始めたのは23才の時だった。
当時、辺りはまだ一面焼け野原。 そんな中を米一表を背負って毎日通って来たのだという。
「昔は、なーんも無かったんだよ、着るもんも食うもんもなーんもねえの。
20で嫁にいってよー、朝っぱらから洗濯してよ、わらでご飯炊いてよ、手なんか荒れちゃって
真っ赤だよ。
便所の中で涙こぼして、実家の方見て叫んだよ、帰りてーよー、帰りてーよーって、泣いて泣
いて泣き抜いたよ」
時折、目をぎゅっとつむり、ていねいに話しかけてくれた。
「苦労ってもんはずいぶんしたよー。 まーず働いたよ。 80年働き続けても丈夫なんだから
よ~。 大したもんだと思ってよ~。 息子たちにも言われんだよ。 ばあちゃん元気だよなー
ってな」
そう言うと、満面の笑みを浮かべ、豪快に笑う。
石山さんが行商を始めた当初バラックばかりだった銀座の町並みは、1964年の東京五輪を境
に近代化が始まった。 1967年には通りを走っていた都電が廃止され、ビルが次々と建ち、東
京で一番のネオン街に変わっていった。
「今は高いビルばっかり建っているけど、どんどん人がいなくなってる気がするね。 少し前まで
は近くに麻雀屋さんがあって、朝に徹夜明けの人がよく買いに来てくれたよ」
そう言って石山さんは、地下鉄の改札口に向かっていった。
数歩進んで振り返る。
「だけど、人情は60年、変わんねえ」
☹ ☹ ☹ ☹ ☹ ☹ ☹
いかがでしたか ? 行商のおばちゃんの話。
私はこの石山文子さんに本当の日本人の姿を見た思いがします。
もう2年ほど前の記事になりますので、今年86歳になられているはずです。 現在も続けられてい
るのかどうかはわかりませんが、それにしても驚きですね。 平成に変わって28年、日本で一番の
都会であり繁華街である東京・銀座に、まだ 「昭和」 が残されていたわけですから。
この話を読んでみて改めて感じるのは、昔の日本人の”強さ”であろうと思います。 精神的にも肉
体的にも本当に強くてたくましいですね。 実際に石山さんのところへやってくる人たちは皆、口々
に言うのだそうです。 「おばちゃんに会うと元気をもらえる、安心する、ほっとする」、と。
そして、最後の石山さんの 「人情は60年かわんねえ」 という言葉。
とっても嬉しい気がしますし、温かいものを感じます。
今のこの世知辛い世の中に一筋の光が差すような思いもしますね (o^-')b
長くなりますのでこの辺で終わりにします。
今回の石山文子さんではないですが、行商のおばちゃんを記録した動画がありましたので貼って
おきます。 お時間のある方は是非どうぞ。
山形・庄内地方で近年までリヤカーでの行商を続けられた斉藤みつ子さんとおっしゃる方です。
最後に今回のブログとは直接関係はありませんが、今無性に聴きたい気分の曲です。
↓
海援隊の 「母に捧げるバラード」 昭和49年のNHK紅白歌合戦での映像です。
今も聞こえる あのおふくろの声
ぼくに人生を教えてくれた
やさしいおふくろ
( 中略 )
行ってこい どこへでも行ってきなさい
おまえのごたあ息子がおらんごとなっても
母ちゃん なあもさびしうなか
人様の世の中へ出たら働け
死ぬ気で働いてみろ
働いて 働いて 働きぬいて
休みたいとか 遊びたいとか そんなことおまえ いっぺんでも思うてみろ
そん時ゃ そん時ゃ 死ね
それが それが人間ぞ それが男ぞ
( 中略 )
今も聞こえる あのおふくろの声
ぼくに人生を教えてくれた
やさしいおふくろ
... やっぱり自分は古い人間か ... (笑) また来週~