鮭とチューリップと新潟。

新潟県村上、
味匠 喜っ川 (みしょう きっかわ)。

村上名物の塩引鮭。
村上市と鮭の歴史。

商店街にあるいくつかのお店はこのように昔風情な部屋を展示公開しています。
出会ってからもう10年ほどになる元キャバ嬢で、今はブラジルへ行っている子とのやり取りが続いています。

話しをいろいろと聞いていると、超が二つも三つもつく、格差社会と言ってもいいかもしれません。富裕層と貧困層しかいない中で、貧困層と言ってもホームレスレベル、と言っても差し支えないほどの貧困層だと思います。

被写体を斜めに捉える構図は言うなればごまかしやすいですが、

真正面に捉えるのは、水平、上下左右の平行を揃えるのが非常に難しいところです。デジイチでも難しいですが、とくに人工物をコンデジで、となるとなおさら難しく感じ、いずれにしてもなかなかうまく撮れません。

旅行番組などで観たことがあり、一度来てみたかった新潟県村上市。

伝統的なお店に加え、近年出店したであろうカフェや漆塗りの器を扱っているお店など含め、数店舗は整って経営していますが、

ほとんどがこのようなシャッター通り状態でした。地方の疲弊、日本経済の没落は、ブラジルの話しを聞くにつけ、まだまだ恵まれすぎているぐらいにも思います。

ブラジル某所の写真を送ってくれました。丘の上に勝手に家を建て、政府も統治する必要から電線を引き、それが繰り返され、そんなたくましい生命力ともいえる光景です。家の中は心地よい風が通り抜け、居心地はよいそうです。日本がどこかで無くした生きる本能、と言ってもいいかもしれません。

冒頭写真のお店では塩引き鮭を、こちらでは乾物・干物を仕入れました。塩引き鮭は美味しさが凝縮されつつも、ほどよい塩加減でごはんにもとても合い、美味しくいただいています。

ブラジルへ行っているその子は日本へ帰ってきたときに、街には老人・高齢者だらけで違和感を持ったそうです。いつも日本にいると当たり前の光景で気が付かないのもかもしれません。

試食の種類も豊富に、お茶まで出してもらえば、買わないわけにはいきません。鮭トバに、イカやわかめの干物・乾物を買いました。動物系の干物は強い酸性で体に悪いという指摘もあるようですが、ほどほどであれば問題ないレベルだと思われます。

村上の出だしで小雨に降られましたが、いつの間にやら止んでいました。川崎重工のブラジル進出失敗やその損害額まで把握しており、日本で周りに話しするにつけ「同レベルの会話ができない自分が情けない」という感想を漏らす人がいるのですが、そう言われるほどにアンテナも張っている子だと思います。いい頭脳を持っているとも感じます。同じく教えてもらった数値としては日本では15歳以下の人口が12%に対し、ブラジルでは24%の比率を占め、

そこらあたりにたくさん子供がうようよいる感覚だそうです。自分の子であるなど関係なく、大人と子供がよく触れ合い、大人はみんな子供を宝だと思い扱い、大人は子供へ大人と同じように接するので、感覚や考え方が熟した子も多い感覚だそうです。

黒壁。地面がアスファルトで雰囲気が台無しのように感じました。ここを石畳にすればより風情が出て、観光客誘致のスポットになり得ると思います。

お店を覗き足を先に進めると、店主が出てきて寄って行ってほしい、とのことで入店。日に何人も来ないであろう客を逃すわけにはいかない、という思いを感じました。招き猫の彫り物とストラップなどを仕入れて。

せっかくなので日本海に沿った下道で50キロ先の旅館へ戻ります。海沿いも走る国道345号、途中から国道113号はすてきなドライブロードでした。日本海を眺めたり、

道中、チューリップ畑が見えたので、otusに持ち替えて寄り道。

比して日本では、子供が少ないばかりか、ベビーカーは電車に乗せるな、保育園はうるさいから作るななど、末期的なものを感じるという意見でした。保育園のニュースまで把握し、話はブラジルの政治や政局にも及び、そのような点も感心しきりです。

こちらはチューリップ園ではなく、農家の畑になります。色ごとに香りも異なって面白いものです。

一声かけさせてもらうと「どうぞどうぞ、もちろん
見ていってくだせぃ」と味のある新潟弁で高齢な女性が返してくれました。ばぁばはそのまま立ち話モードで、我々はチューリップの鑑賞。

こちらは農家向けの小さな畑に咲くチューリップ。最近ばぁばが子供のために飼いだした金魚とめだかが住む器にタニシを連れて帰るとのことで、採らされて。農薬がきついところではタニシすらいないそうです。

ブラジルには相続税がないそうで、つまりは富裕層とその親族は永久的に富裕層であり、そのような超格差社会であっても、街は明るいそうです。どこもかしこも子供で溢れ、大人が子供を大切にする社会は活気と希望に溢れている感覚でもあるそうです。経済的には豊かで、もしくは食べるのには困らないものの精神的に疲弊している社会と、経済的困窮つまり衣食住に苦しみながらも明るい希望感ある社会。多くの日本人が後者をどこかで望むところもあるような気もしますが、そこにもまた問題が内在しているようにも思います。

震災や災害の度に、「私たちに何ができる」と考えたり、義援金やボランティアがあるわけですが、そしてやれ「もらったおにぎり残すとはけしからん」や、「自衛隊もっとしっかりやれ」、「という意見はどうなんだ」、あるいは「愚痴りたいのはお前だけでない」「そのような話題性がくだらない」などなどよく分からない摩擦もまた生じたりするわけですが、被災地レベルと言ってもいい貧困層があるブラジルでは少なくとも富裕層はそもそも「貧困層を助ける」どころか、「貧困層へなにかする」という概念すらないそうです。

日本でも昔は近所のおばさんや町内のおじさんが子供を叱ったり、あるいは声をかけるケースも多くあったと思います。だんだんと人と人のコミュニケーションが薄まって、そして歪んできたわけです。子育ての現場、つまりは公園などで見ていて思いますが、子供が他の子供に接しないように一生懸命な親御さんが多いと感じます。

「一緒にあそぼ」と言えば済むところ、「ほらお友達(知らない他の子の意)が使うから邪魔だからどきなさい」「ほら、邪魔だよ、邪魔」と自分の子を何度「邪魔扱い」するのだろう、という場面に出くわすことも少なくありません。邪魔扱いされ、他の子に接しない方向で育てられた子供はどのように育つのでしょうか。

そのような光景が毎日各地で繰り広げられ、20年後に成人していきます。ということが繰り返されて、僻地で生きるその元キャバ嬢が言う、末期を感じるまでになってきたのかもしれません。

先日、こんなことがありました。子供がとある遊園地の遊具で遊ぼうするすると、そこを占領していた中国人の少しお兄さん二人が、けたたましい中国語で「ここは使わせない」ようなことを言っていました。一人は攻撃性が強いのでしょう、私の子供の目の前に指をさし示し激しく力強く何かを言い、一人は保守的なのでしょう性格も出て面白いと思いましたが、両腕を水平に広げてここに入るな、という意思表示を同じく激しく中国語で何かをいいながらしていました。中国人の親御は近くに見当たりません。子供は淡々とした感じでしたが、私は少し見守ったあとに、ひょうきんな風合いで抑揚を思いっきりもつけて何度も「謝謝(シェーシェー)」を連呼しました。すると突然笑顔になり「おいでよ」というジェスチャーに変わりました。

大人の役割としてときにはコミュニケーションが生まれる方向へ物事を上手に整えることが大切かと思いますが、今は「邪魔だからどきなさい」「お友達に譲ってあげなさい」であって、「一緒にあそぼう」ではないのが大勢の大勢なわけも問題であると認識していますが、特筆するべきは中国人の親は異国へ来て子供を放っておいている点です。たくましく育つことは間違いなく、逆のベクトルで育てられる日本人との競争力も、相対的にも、このような根本的なところから、違いが生まれていっているのだと思います。私ももっと放置してもいいと反省しています。

これも金魚とメダカへお土産に。

車内は砂だらけですが、それとは別に「キィー」という引っ掻き音を立ててボディにおもちゃを走らせたり、後部座席の蓋は破壊され、何度も食べ物も飲み物もこぼれているので、砂どころでなにも気になりません。以前、子供にクルマを汚された父親が「チェッ、クソガキが」と表していたのを見たことがありますが、子供が小さいうちは何でも汚れると割り切ったほうがストレスにもならずによいと思います。

植物が大好きなばぁばが通りにあった花屋に寄りたいとのことで、入店。一足早いあじさいに出会えました。と思ってると昨日都内でもあじさいを見ました。いろいろな種族があるものです。

ばぁばの影響で子供もだいぶ花が好きで、道沿いにあると大興奮します。

将来の経済環境などはよく調べたりもして考えてきました。しかし子供が生まれてから、より強くリアリティを持って想像もするようになったのですが、考えてみると見込みが間違っていたこともあったと反省しました。

そこから見聞きし考えてたどり着いたとある環境を作っておいてやろうとも思っています。

ビジネスに対する信念を2つほど捻じ曲げますが、それもまた成長と思い。

GW中は大きな公園2ヶ所と羽田あたりを予定していますが、あとはさして行くつもりもありません。そのうち大型連休しか目立った旅行にしか行けなくなりそうですが、今は混雑を避けて。

GW明けは霞ヶ関での食事会にも呼んで頂きました。一言一句勉強させてもらってきます。
ドライブへ行こう。