2011年05月23日
聖書に関する素朴な疑問 3 アダムは何故罪を犯したか
創世記3章・アダムはなぜ罪を犯したのか
「それで彼女はその実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた。」(創世記3:6)
アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、受け取って食べました。(創世記3:6)アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、それを退けて神に対して罪を犯さないようにすることはできなかったのでしょうか。アダムは、そもそもなぜ罪を犯したのでしょうか。人間は、誘惑や試練を受けると神の律法に従うことができないのでしょうか。
聖書は人間が神の像に創造されていることを示しています。(創世記1:27)それは、人間が神の内面的な特性を与えられているということを意味します。神の主要な特質は愛です。(ヨハネ第一4:8)ですから、当然アダムにも愛という特質が与えられました。聖書は、「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛だからです。」と述べています。(ヨハネ第一5:3)ですから、アダムの神に対する愛はなによりも、神のおきてに従うことによって表すことができました。
聖書は神が人間の心に良心という機能も与えたことを示しています。「律法の内容がその心に書かれている」と述べられており、人間は、神のおきての基本的な原則に従いたいという願いを生来持っています。(ローマ2:15)そのことは、諸国家が聖書を知らなくても、殺人や偽り、姦淫、親への不従順などを非とする原則を自然に自国の法律の中に反映させていることから分かります。
神から与えられている良心のゆえに、人間は悪行に誘われた時、それを不快に思う気持ちが生じます。例えば、ヨセフは人妻から姦淫に誘われた時、神と女の夫に対して悪行を犯して罪を犯さないように動かされました。(創世記39:9)姦淫を悪行とする条文は、その当時まだありませんでした。しかし、ヨセフは、結婚の取り決めは、神によって始まったというという聖書の記述を知っていたでしょう。それで、ヨセフは、自然に姦淫は神に対する悪行であると感じて退けました。ヨセフは、良心に動かされていました。
ですから、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時、アダムも、良心に動かされて不快に感じたはずです。(ローマ2:15)アダムはその時、エホバ神から与えられていたものすべてに対する感謝に基づいて神に愛を表わし、神に不従順になって神を不快にさせたくないと良心に従って考えることもできました。そのようにしてポテパルの妻に誘惑された時のヨセフのように神への愛や感謝や良心に基づいて行動することもできました。そのようにしていたなら、アダムも神に対して罪を犯すことはなかったはずです。
しかし、アダムは、罪を犯した後、「わたしと一緒にいるようにと与えてくださった女、その女がその木から実をくれたので、わたしは食べました。」とエホバに説明しています。(創世記3:12)ですから、アダムが罪を犯したのは、仲間の圧力でした。唯一の仲間であったエバが神に不従順になりました。アダムは神に従うのではなく、仲間のエバに従いました。
アダムは、エバと一緒にいたいと思っていたのでしょう。そして、おそらく、アダムは、神に従って、木の実を食べないでいれば、罪を犯してしまったエバと一緒にいることができなくなると考えたのでしょう。アダムは、エバと一緒にいるようにしたいという欲望を神への愛や従順や良心よりも優先させたと考えられます。
私たちは仲間の人間が神に不従順な時、しかも仲間の人間の多くがそうである時、神に従うのは、難しくなります。聖書は「よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない。」と述べています。(出エジプト23:2)私たちは仲間の人間の多くに従いたいという願いをもっているでしょう。しかし、アダムはよこしまな事柄のためにエバに従いました。アダムは、その当時唯一の仲間の人間であるエバが神に不従順になって、独りになっても神に従うべきでした。
申命記32章5節にある「彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。」という言葉は、アダムにも当てはまるでしょう。アダムは、神の子供として神への愛に基づいて行動しませんでした。その欠陥は、アダム自身のものです。自由意志を与えられた人間として、アダムはその自由意志の行使の仕方に責任がありました。アダムが罪を犯したのは、自由意志の誤用であり、アダムはヨセフのように健全な仕方で思考力を働かせませんでした。
人間は、自由意志を用いて、たとえ誘惑や試練にさらされても、罪を犯さないようにすることができます。ヨセフが、人妻に勧められても、悪行を退けたことは、不完全な人間であっても、神の律法に不従順にならせようとする仲間の圧力に抗することができることを示しています。そのことは、また、歴史を通して、誘惑や試練のもとで神に忠実を保った大勢の人が証明しています。またイエスは、どんな苦しみを受けても完全な人間が全く罪を犯さないようにすることができることの完全な証明となっています。(ペテロ第一2:22)
アダムは、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時に、アダムは、神ではなく、人間に従いました。(使徒5:29)けれども、不完全な人間であっても、誘惑や試練を受けても、支配者として人間よりも神に従い、神の律法に従う人がいます。
聖書の預言によると、基本的に神に対して罪を犯すことのない天と地上におけるエホバの崇拝者からなる世界が将来実現する時がきます。(啓示21:1,3)それは、神の王国が千年間支配した後の時のことです。その時、地球と人間に対する神の目的が完全に成功します。人間は永遠に神に対して罪を犯すことなく、神に愛と感謝を表わすことができるようになります。(ヨハネ17:3)
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えーっと。 つまり、アダムは神よりエバを選んだ。
んで、どちらかを選ばなければいけなくなった、未熟者のエバは、ヘビ(悪魔)にそそのかされた。
一番悪いのは、ヘビ(悪魔)
だけど、そもそもヘビ(悪魔)の存在を許していたのも神なので、神の管理不行き届きが、大本の原因ではないのかな~?
つづく
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Posted at
2011/05/24 12:26:24
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