2011年05月24日
本当に神がこの世を創り、その神は愛だというなら、何故この世は地獄のような有様なのか?
この世は、悪魔が創ったとか、悪魔が仕切っているというほうが分かりやすい。
「果たして真実はどっちだ?」
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ローマ5章・神はなぜアダムの子孫の罪を即座に治されなかったのですか
「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった・・・。」(ローマ5:12)
アダムは病気、疾患、悲しみ、苦痛など、価値のない遺産を子孫に伝えました。(ローマ 5:12)ある人は、アダムの子孫は直接神に不従順な行動をしていないのに、罪を受け継いだことを疑問に思います。愛のある神であれば、なぜアダムの子孫の受け継いだ罪や不完全さを治してくださらなかったのでしょうか。
エホバはなぜアダムの子孫からアダムから受け継いだ罪を許し、罪の結果を即座に取り除くということをされなかっのでしょうか。例えば、ある人々は、アダムの罪と関係なかったアベルやその他の良い人々から、アダムから受け継いだ罪を取り除いて永遠に生きられるようにすることができたのではないだろうかと考えます。しかしながら、聖書は「罪を犯さない人はひとりもいない」と述べています。(列王第一 8:46)ですから、アベルと言えども、やはり、ダビデと同じように罪を犯していました。
アダムの子孫は皆、受け継いだ不完全さゆえに、罪を犯しやすい傾向を生まれつき持っています。ダビデは罪を犯してしまった時に、自分が生まれつき罪深いということを述べて、神に憐れみを求めています。ダビデは、「わたしはとがと共に、産みの苦しみをもって産み出され、わたしの母は罪のうちにわたしを宿しました。」と述べています。(詩編 51:5)そのせいもあり、人類はアダムから受け継いだ罪を増し加えています。その結果、アダムの子孫のすべてがアダムから病気や死やそれに伴う苦しみを受け継いでいます。
エホバはすべての人から、罪とその結果を即座に取り除くということはされませんでした。なぜでしょうか。それには、大きく言ってふたつの理由がありました。ひとつの理由は、神の義と公正のためです。
人間の政府の支配者が法に対する民の違反に対して甘くなり、何の罰も加えないとすれば、どうなるでしょうか。不法は蔓延し、民の政府に対する敬意も損なわれ、無政府状態になるのではないでしょうか。
しかし、「義と裁きは神の王座の定まった場所」です。(詩編 89:14)そして人は神の法的公正を無効にすることはできません。(ヨブ 40:8)それで、神はご自分の義と公正の原則のゆえに、感傷に負けて人類の罪をすぐに許してしまうというようなことはできませんでした。
神ご自身のみ言葉は、『罪の報いは死である』ことを示しています。(ローマ 6:23)エホバは罪に対して、断固とした態度を取っておられます。しかし、もし、エホバが人類の罪深さを大目に見るとすれば、神はご自身の義の規準を無視することになったでしょう。そして神が少しでも義からそれるなら、それは宇宙内で不法を助長し、宇宙の主権者としての神の立場を弱める結果を招くにすぎなかったでしょう。(伝道の書 8:11)
それゆえに、人間が罪を犯した場合、エホバは罪の許しのために贖罪つまり贖いを求められます。それは、モーセの律法の要求に示されていました。罪を犯した人は、罪の許しのために動物の犠牲を捧げることが求められていました。(レビ5:6)また、モーセの律法下では、過去一年のイスラエルの罪の許しのために特定の日が贖罪の日として定められており、大祭司は罪の捧げ物として動物の犠牲を捧げました。(出エジプト30:10)
そのようにして、罪の許しのために贖いが求められるのは、正しいことです。罪が許されるにあたって、そうした贖いが求めらることによって、初めて、罪の重大さが強調され、罪を犯した人は、二度と罪を犯すことのないようにしようという決意が鼓舞されるでしょう。そのようにして、神の義と公正さの基準は満たされます。
エホバは人類の罪を覆う贖いとしてご自分の最愛のみ子の完全な命の犠牲を備えられました。「この[み子]によって、わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています。」と聖書は述べています。(コロサイ1:14)み子の贖いは動物の犠牲と違って完全に罪を許す効力があります。人類の個々の人は、み子の贖いという根拠に基づいて許していただけます。そのようにして、神の公正と義の基準も満たされます。
人間の罪をみ子の贖いによって覆っていただけるという取り決めは、人間だけに与えられている神の憐れみを反映した特権だと言えます。み使いは、み子イエスを通して神に直接完全なものとして創造されました。そのために、罪を犯した場合、自分の罪を他の人のせいにして言い訳をすることができません。それで、御使いが罪を犯した場合、贖いは受け入れられません。しかし、アダムの罪の影響を受けている人間は、アダムから受け継いだ罪のゆえに、それがなかったなら犯さなかった罪を犯してしまうことがあります。そのため、人間のためには罪の許しのための贖いの取り決めがあります。
さらに、エホバが人類の罪をエデンでの反逆の後、すぐに取り除くことをされなかったもう一つの理由は、エデンの園で、解決されなければならない重大な論争が提起されたからです。
サタンは、エデンの園で、人間は神から独立して神のように独自の善悪の基準を決めて首尾よくやっていけると主張しました。そして、神を、神から独立するという自由を被造物から不当にも奪っている偽り者と非難することにより、神の名声を傷つけました。(創世記 3:1~5)そのようなサタンの挑戦を無視することはできませんでした。もし答えを与えないままにしておくなら、神の支配権に対する確信も支持もついには弱まってしまったことでしょう。
エデンの園で、サタンからそのような問題が提起されたために、エホバは、サタンと人間に神から独立して独自の基準を決めて行動する、いわば自治をする自由を与えることにされました。そのようにして、サタンと人間は、神から独立して首尾よく自治ができるかどうか試みる自由と時間が与えられました。
そのために、エホバはアダムの子孫から、アダムの罪の影響を即座に取り除くということをされませんでした。
それで、アダムとエバをすぐに処罰して裁くことをされず、生き永らえるにまかされました。それでも、アダムはエホバの言葉の通り、罪の影響のために最後には死んでしまいました。
そして、これまで人間は、およそ六千年の間、人間が神から独立した結果がどのようなものになるのかを見ることになりました。
人間の歴史を通して、悪魔サタンの提起した論争が全くサタンの側の誤りであることが徹底的に証明されています。
すなわち、悪魔サタンと人間は、神から独立して独自の善悪の基準を定めて幸福な生活を送ることはできません。人間の歴史は、戦争や争い、憎しみ、病気や問題で満ちています。エホバは悪魔サタンと人間の支配の結果が徹底的に証明された後は、ご自分の政府である神の王国によって、アダムの子孫から、アダムから受け継いだ罪の痕跡を取り除いていかれます。
それで、エホバは、理由があってアダムの子孫からエデンでの反逆の後、即座にアダムの罪の影響を取り除くということはされませんでしたが、ご自分の方法で、ご自分の予定の時にそうされます。永遠の見地から見て、エホバがそうされたことは人間にとって最善の結果をもたらします。
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なるほど、この世は神が作ったとしても人間社会の仕組みなどは、悪魔が作ったとしか思えなかったが、その理由がコレだったのね。
悪魔が神に仕掛けた論争の実証実験がこの6000年間続き、この世が、酷ければひどいほど、悪魔が間違っていて、神の権威が回復され、実証実験が終わった後に人間に「ご苦労さん♪」と労われるということですか。
本当に悪魔って人間にとって迷惑千万!悪魔のような奴だ!!
それに乗せられる 神も 大人気ないというかなんというか…。
…人間って、所詮、将棋のこま 実験の素材だったのね。
Posted at 2011/05/24 13:48:53 | |
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聖書 | 日記
2011年05月24日
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ローマ5章・愛の神がなぜ罪と死を人間に与えたのですか
「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように―。」(ローマ5:12)
ある人は、エホバが愛の神なのに、なぜ最初の人間アダムとエバの行動のために罪と死を人間に与えられたのか、それは残酷で厳しいのではないかと考えます。どうして神は人間に罪と死というとても大きな罰を与えて人間を苦しめるのだろうかと考えます。
この考え方は、交通ルールを決めてその交通ルールに違反することがあれば、罰することのある当局にすべての交通事故の責任があるとみなすのに似ています。また、当局の課す罰が残酷で厳しく、当局は人々を苦しめているとみなすのに似ています。交通事故の責任は、交通ルールに違反して交通事故を起こすすべての人にあります。交通事故は、交通ルールが決められているから存在するのではありません。交通事故は、交通ルールの違反者に罰を与える当局に責任があるわけではありません。
交通ルールは、交通事故を起こさないため、人々の命と安全のために設けられています。交通ルールとその罰は、人々の命を守るのに助けになっています。
エホバはアダムとエバに善悪の知識の木の実からとって食べてはならないという律法を与えられました。その命令は、人間が神の支配権を尊重すべきことを意味していました。「それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」とエホバはアダムに言われました。(創世記2:17)
これは、アダムが木の実を食べることの罰でしたが、またその必然的な結果ということもできました。エホバ神は、人類の命と福祉のために、人類がご自分の支配権に服する必要があることをご存知でした。その必要性を示すために、エホバはアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないという律法を与えられました。
アダムとエバがエホバの命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べた時、エホバがアダムとエバに与えた直接的な罰は、エデンの園から追い出すことでした。(創世記3:23)エホバはアダムとエバを即座に処刑することもできましたが、そうされませんでした。たいへん軽い罰だったと言えるのではないでしょうか。そして、アダムとエバはエホバの親しい指導を受けられなくなりました。ですから、アダムとエバに起こることは、エホバの支配権から独立してエホバの親しい指導を拒む時、どんな結果になるかを示していました。
アダムはサタンの言葉に欺かれなかったが、エバは欺かれたと聖書に書かれています。(テモテ第一2:14)ですから、エバは、サタンの言葉を信じて、エホバの支配権に従わずエホバから独立しても、死ぬことはなく、かえって自分たちにとって状況は良くなると考えていたことでしょう。(創世記3:4,5)そして、アダムとエバは、エホバに不従順になってエホバから独立する道を選びました。
しかし、神の親しい指導を受けられなくなった結果、アダムとエバは年を取って死んでしまいました。(創世記5:5)アダムとエバが死ぬことは、確かに、彼らがエホバに背いたことへの罰と言うこともできましたが、それは、アダムとエバがエホバからの親しい指導を退け、エホバから独立するならば、どんな結果になるかを示していました。人間は、神の親しい指導を退け、神から独立して永遠に生き続けることはできませんでした。
このことは、人間は、エホバに完全に従順を示し、エホバと親しい関係を維持する時にのみ、幸福のうちに永遠に生き続けられるということを示しています。アダムの子孫は、アダムとエバから不完全さと罪を受け継ぎました。そのために、生まれつきエホバに不従順になる傾向があり、病気になりやすい弱さを持っています。(詩編51:5)その結果、アダムの子孫は、最終的には死にます。アダムの子孫の中のある人々は、罪をさらに犯して神の道徳基準を無視した行動をとり、自分と他の人々に苦しみを増し加えました。
それで、人類は、アダムがエホバに従順であり、また各々がエホバに従順であるならば、今日経験しているような苦しみはほとんど経験しないですむはずでした。苦しみは、エホバの支配権と神の律法に不従順な人間が自らもたらしています。罪と死という苦しみは人間が自らもたらしており、人間に責任があるということを意味しています。
それで、ローマ5章が述べているように、罪と罪による死はエホバがもたらしたものではありませんでした。聖書は一人の人つまりアダムによって罪が世に入ったと述べています。また、すべての人はさらに罪を犯して自ら罪と苦しみを増し加え、自らに死をもたらしています。
交通事故とそれによる苦しみと死を交通ルールの違反者がもたらしているのと同じです。交通ルールを設ける当局に交通事故の責任がないのと同じように、エホバに人間の罪と死という苦しみの責任はないと言えます。
では、エホバに不従順になって罪を犯したのは、アダムとエバですから、アダムの子孫には、永遠の命を与えることはできないのでしょうか。アダムが罪を犯したために、アダムの子孫は、生まれつき罪と不完全さを受け継いでいます。アダムの子孫は、生まれつきの状態では、永遠の命を受けられない状態にあります。
このことは、エホバ神がアダムの子孫に望まれたことではありませんでした。エホバ神はアダムの子孫が救われて、永遠に生きられるようになることを望んでおられます。(テモテ第一2:4)アダムの子孫が罪と死を受け継いだことは、アダムとエバがエホバから独立する道を選んだためにアダムの子孫に及んだ結果でした。それで、エホバはアダムの子孫が罪と死から救われて完全な人間になるように援助されることにされました。
エホバは、そのために、ご自分の最愛のみ子の贖いという犠牲を払われました。(ヨハネ3:16)
また、アダムの子孫を罪と死から救い出すために援助するための神の政府も取り決められました。これが神の王国です。(マタイ6:10)このような備えは、エホバ神のアダムの子孫である人類に対する愛を証明しています。
エホバは愛の神であり、人間が罪と死によって苦しむことを望んでおられません。人間が苦しんでいるのは、神の設けられた律法に違反し、神の支配権を退けたからです。人間が罪と死に苦しんでいるのは、人間の行動に責任があります。エホバはその愛により、人間がご自分の支配権に戻る道を開いておられます。私たちは聖書を読み、エホバとの親しい関係を築いてエホバ神の支配権に今から服することができます。
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ってことは、人間が神から独立したから、不具合を起こしているということ?
いつまでもスネてないで、親に謝って、晩御飯を食べなさい!ってこと?
神と和解して、プログラムを修復して、最新のウイルス対策用ワクチンをインストールして、セキュリティ万全にして、悪魔の攻撃に備えて、バッテリーも充電して無計画停電に備えましょうってこと?
なかなか、聖書の世界も興味深いものだったのね。
とあえず、神様が人間に対して”超ドSでない”ことは分かった。
でもなんで、悪魔の存在を許しているのか?
つづく
Posted at 2011/05/24 12:50:21 | |
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