世田谷区の住宅で火事 プロ野球元投手 村田兆治さん死亡
2022年11月11日 12時11分 訃報
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11日午前、東京 世田谷区で、2階建ての住宅の一部が焼ける火事があり、この家に住むプロ野球・ロッテの元投手の村田兆治さんが死亡しました。当時、この家に1人でいたとみられるということで、警視庁が火事の原因を調べています。
11日午前3時すぎ、世田谷区成城で、木造2階建ての住宅から火が出ていると近くに住む人から消防に通報がありました。東京消防庁によりますと、消防車26台が出て火は3時間半余りあとに消し止められましたが、住宅の2階部分の40平方メートルが焼けたということです。
警視庁によりますと、この火事で、この家に住むプロ野球・ロッテの元投手の村田兆治さんが意識不明の状態で病院に運ばれ、その後、死亡したということです。死因は一酸化炭素中毒で、村田さんは、火事のあった当時、この家に1人でいたとみられ、2階で見つかったということです。
現場は、小田急線の成城学園前駅から北に1.3キロ離れた住宅街で、警視庁が火事の原因を調べるなどしています
張本勲さん「残念でことばが出ない」
村田兆治さんと現役時代同じチームでプレーし、その後も親交のあった元プロ野球選手の張本勲さんは「こんなことがあっていいのかという気持ちだ。離島の中学生を集めた『離島甲子園』を開催したり、年6回は北海道から沖縄まで回って野球教室をしたりした球界の仲間だった。残念でことばが出ない」とコメントしています。
「マサカリ投法」で活躍
村田兆治さんはプロ野球ロッテで「マサカリ投法」と呼ばれる豪快なピッチングフォームで通算215勝を挙げました。
広島県出身の村田さんは昭和43年(1968年)にロッテの前身の東京オリオンズに入団し、左足を大きく上げた「マサカリ投法」と呼ばれる独特な投球フォームから繰り出す速球とフォークボールを持ち味にエースとして活躍しました。
昭和57年(1982年)にひじを故障し、翌年、アメリカでスポーツ医学の権威として知られたフランク・ジョーブ博士のもと当時の日本選手ではほとんど例のなかったひじのじん帯を修復する「トミー・ジョン手術」を受けました。
村田さんはおよそ2年間のリハビリを経て復活を果たし、昭和60年(1985年)には開幕から11連勝をマークして17勝をあげ、カムバック賞を受賞しました。
ほかのピッチャーより間隔をあけた中6日で毎週日曜日に登板することから「サンデー兆治」と呼ばれました。
平成元年(1989年)には39歳にして3回目となる最優秀防御率のタイトルを獲得し、翌年には40歳でふた桁となる10勝をあげ、この年かぎりで引退しました。
プロ23年間で通算215勝、歴代10位の2363奪三振を記録し、平成17年(2005年)に野球殿堂入りを果たしています。
タイトルは最多勝1回、最優秀防御率3回、最多奪三振を4回獲得しています。
現役を引退したあとは対外試合の機会が少ない離島の中学生を対象にした軟式野球の大会、「離島甲子園」の開催を提唱するなど、野球の普及活動に力を入れていました。
「自分たちも逃げないといけないと思うほど」
近くに住む女性は「午前3時前に煙のにおいや消防車のサイレンの音で火事が起きていることに気がつきました。様子を見に行くと煙と火の勢いがすごくて自分たちも逃げないといけないかなと思うほどでした。村田さんは現役のころからこのあたりに長く住まれていて、非常に気の毒だなと思います」と話していました。
「火は屋根より3メートル以上も高く」
近くに住む70代の男性は「ガラスが割れるような音が聞こえたので外を見たら住宅の2階の窓から火が出ていました。火は屋根より3メートル以上も高く上がっていました。近所でこのような火事があり怖いです」と話していました。
「近所に住んでいること誇りだった」
近所に住む40代の男性は「消防車の音はしましたが、まさか村田兆治さんの家とは思わず驚きました。コロナ禍の前は、近所の公園で遊んでいた小学生に声をかけて100キロ以上に見える本気の投球でキャッチボールをしていたのが印象的で、本当に野球が大好きなんだなと思いました。日本を代表する選手が近所に住んでいることは誇りだったので、このようなことで亡くなられてしまったのは残念としか言いようがないです」と話していました。
Posted at 2022/11/11 12:36:25 | |
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