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JR120XEのブログ一覧

2015年12月05日 イイね!

トルコ航空 特別塗装機「串本号」

トルコ航空 特別塗装機「串本号」現在、日本とトルコを結ぶ

トルコ航空が、日本とトルコの友情を描いた

合作映画「海難1890(いちはちきゅうぜろ)」が

公開されるのを記念して、イラン・イラク戦争中の1985年、

イランに取り残された215人の在留邦人を救出した

トルコ航空機のデザインを復刻し機体にローマ字で

「KUSHIM0T0」(くしもと)と書かれた

特別機が運行されています。



<映画「海難1890」>トルコ特別塗装機「串本号」関空に

史実を基に日本とトルコの友好の原点を描いた両国合作映画「海難1890」(田中光敏監督、毎日新聞社など製作委員会)が5日から全国公開されるのを記念して、ターキッシュエアラインズ(旧トルコ航空)の特別塗装機が3日、関西国際空港に飛来した。1985年のイラン・イラク戦争時、テヘラン在留日本人救出のために飛んだトルコ航空機のデザインを復刻。イスタンブール−関西空港線に投入される。

 映画は、1890年に和歌山県串本町沖でオスマン帝国(トルコ)の軍艦エルトゥールル号が荒天で沈没し、地元住民が乗組員を救助した話が描かれ、映画の題名もこの救出劇にちなんでいる。特別塗装機(エアバスA330−200型機)は「KUSHIMOTO(串本)号」と命名され、折り返し便の出発に合わせて行われた記念式典には串本町の田嶋勝正町長も招かれた。田嶋町長は「串本号と命名していただきたいへん光栄です。両国のさらなる発展のため尽くしていきたい」とあいさつ、日本とトルコの末永い友好を誓った。

2015/12/4/毎日新聞配信





邦人救出の復刻機飛来=友好125年記念で―トルコ航空

イラン・イラク戦争中の1985年、イランに取り残された215人の在留邦人を救出したトルコ航空機のデザインを復刻した特別塗装機「Kushimoto(くしもと)」号が30日、成田空港に飛来した。

 当時の客室乗務員らも同機で来日。1890年に和歌山県串本町沖でトルコ軍艦が遭難し、地元住民が救難活動に当たった事故から125周年に当たるのを記念した両国合作映画のPRイベントなどに参加する。

 邦人救出劇は、イラクのフセイン大統領(当時)が48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛行する航空機は無差別に攻撃すると宣言したことに起因。イラン在留の外国人は一斉に出国したが、日本からは救出機が飛ばず、200人以上が取り残された。

 こうした中、軍艦遭難時の対応が広く知られ、親日家が多いトルコのオザル首相(同)が邦人救出機の派遣を決断。トルコ航空が2機の特別機を用意し、2機目がタイムリミットまで残り1時間でテヘランを飛び立った経緯がある。

 Kushimoto号到着後、駐機地区では当時の客室乗務員や救助された日本人らが参加してセレモニーが行われ、当時日産自動車の社員としてテヘランにいた沼田凖一さん(73)から客室乗務員だったアイシェ・オザルプさんに花束が手渡された。

 取材に応じた沼田さんは「航空機が到着した時、30年前のことがよみがえって涙が止まらなかった。(トルコには)感謝しても感謝しきれない」と話していた。 

2015/11/30/時事通信配信



映画「海難1890」は、史実である「エルトゥールル号事件」を基に、

トルコと日本の有効を描いた日本・トルコ合作映画



「エルトゥールル号事件」とは、今から120年前の

明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世が

オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した巡洋艦「エルトゥールル号」

(2,344トン)が、和歌山県串本町沖で海難事故を起こし座礁、大破。

オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、地元住民の献身的な救助活動により、

69名が救助された事件

この時の事をトルコの人達はとても強い恩義に感じており

イラン・イラク戦争時の1985年、退避を余儀なくされたイラン在住の邦人216名を

トルコ航空機が救ってくれた話に繋がります。



イラクのサダム・フセインが

「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」

と、世界に向かって警告している危険な空域に

トルコが救援機を差し伸べてくれたのか?

しかも、2機目のトルコ航空機がテヘランを飛び立ったのは

タイムリミットまで残り1時間とギリギリのタイミング

後に、当時駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人

たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。

トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。

今の日本人が知らないだけです。その事がテヘランで困っている日本人を助けようと、

トルコ航空機が飛んだのです」と語っています。



トルコには何故親日家が多いのか理解できない日本人の方も少なくありませんが

日本人として2つの小さな歴史の物語』の事は、知っておいた方が良いでしょう。



95年後のトルコの恩返し・・・

この2つの出来事は、100年近くも時を隔てていますが、

人々の善意や感謝の心によって、しっかりと結びついているのです。

Posted at 2015/12/06 01:00:39 | コメント(3) | トラックバック(0) | 飛行機 | 趣味
2015年11月30日 イイね!

MRJ初飛行の反応は・・・

MRJ初飛行の反応は・・・11月11日に国産旅客機としては53年ぶりとなる

初飛行をようやく実現した。

MRJ(三菱リージョナルジェット)

その、初飛行を収めた

動画もUPされました~♪









この事に関しての

隣国の反応は様々・・・ですが

今後、最終段階に入るMRJ

無事に航空当局による認証(型式証明)を取得し

1年半後に迫った初号機納入を無事に完了してもらいたいですねっ




中国、MRJに負け惜しみ、ゼロ戦からめ揚げ足取りも…
遅れとった韓国は自虐的に


「ゼロ戦製造で有名な三菱重工が手がける」。三菱航空機が開発する国産初の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の初飛行成功について、中国共産党機関紙の人民日報系の人民網(電子版)が伝えた国営新華社通信の記事の小見出しだ。日本が旅客機市場に参入することへの焦りか、「安倍晋三首相は武器輸出の原則を放棄し、日本の軍需産業の強化に乗り出した」とも書く。反日の立場で韓国メディアも中国に同調するかと思いきや、「韓国は第一歩も踏み出せずにいる」などの自虐的な論調が目立つ。

「日本など相手にしていない」



 MRJは11月11日、愛知県営名古屋空港で離着陸し、初飛行に成功した。国産旅客機の初飛行は昭和37年のプロペラ旅客機「YS-11」以来、53年ぶり。初号機は平成29年4〜6月にANAホールディングスに納入される予定という。さらに初飛行を成功させたことで、今後の受注拡大にも弾みがつきそうだ。

 こうした日本の旅客機市場参入の動きに、中国メディアは敏感な反応を見せている。

 新華社は、MRJは中国の小型ジェット旅客機ARJ21「翔鳳」と乗客定員がほぼ同じの70〜90席クラスと指摘。そのうえで、「翔鳳」の初号機が中国商用飛機有限責任公司(中国商飛)から成都航空公司に間もなく納入される予定であることを強調。実際、11月29日に引き渡された。

 一方で中国国有企業が開発を進めている国産中型ジェット旅客機「C919」の初号機が11月2日、上海で公開された。基本設計の座席数は158席。標準航行距離は4075キロとされている。

 こちらはエアバスA320やボーイング737と競合するとしており、「日本など端(はな)から相手にしていない」と言いたげだ。

日本の技術力の高さに危機感?

 それでも、激しい市場の争奪戦を前に、中国もおとなしく黙っていられないのだろう。官製の中国メディアはMRJを「中国商飛に新たなライバル登場」と持ち上げつつも、その揚げ足取りに忙しい。機体や性能などについて正攻法で取り上げるのならよいが、どうも“別次元”であげつらっているのではないかと勘ぐってしまう。

 というのも、例えば新華社は第二次世界大戦中の話まで持ち出す。三菱航空機の親会社の三菱重工業を取り上げ、「三菱重工は第二次世界大戦中、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を製造したことで有名だ。戦後も引き続き日本の軍需産業の巨頭であり続け、自衛隊の戦闘機F-15やその他の兵器を製造している」と強調する。

 さらには、「安倍晋三氏が再び首相に就任した後、日本は数十年来守り続けてきた武器輸出の原則を放棄し、日本の軍需産業の強化に乗り出した」とも書く。

 中国が日本の高い技術力に危機感を抱くのは理解できる。だが、ここまで書かれてしまうと、悪意があると感じざるを得ない。




永遠に『二流国家』に甘んじるしかないのか?



 一方、MRJの初飛行成功に対する韓国の受け止め方は複雑だ。

 韓国の経済専門紙、韓国経済新聞(電子版)は「中国と日本がジェット旅客機市場で迅速な動きを見せる中、韓国は第一歩も踏み出せずにいる」と自虐的に指摘する。

 同紙は経済紙らしく、今後の世界旅客機市場を「欧州のエアバスと米国のボーイングに二分化された市場で、中国には影響力を拡大し『3強構図』を形成するという意図がある。日本もMRJ技術のノウハウを活用し、いつかは収益性が高い中大型機市場に参入する可能性が高いと予想される」と分析する。

 だが、そこに韓国の名はない。同紙によれば、韓国の旅客機開発事業は20年以上も漂流しているという。金泳三(キム・ヨンサム)政権時代の1993年に、「新経済5カ年計画」で中型航空機開発計画を含めて推進したが、共同開発国の中国が手を引いてしまい、事業が中断された。航空機製造業界の関係者からは、「スローガンではなく、航空機開発のための実質的な計画を政府が出さなければいけない」との声も聞かれる。



 そんな中、朝鮮日報(電子版)は「日本のMRJ成功、韓国製造業も奮起を」と前向きな社説を掲載している。

 「航空・宇宙産業は先進経済国に仲間入りするための最終関門だ。見知らぬ道で誰も技術を教えてくれないとためらっていては韓国は永遠に『二流国家』に甘んじるしかない。自動車、半導体産業で未経験の壁を突破したからこそ、韓国経済をここまでリードできたのだ」と鼓舞した。

 「一流国家」を目指すのならば、謙虚さも必要だということか。
/2015/11/30/産経ニュース‎ 配信


Posted at 2015/11/30 19:30:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 飛行機 | 趣味
2015年11月18日 イイね!

世界に誇る長距離機 立川 A-26(キ-77)初飛行

世界に誇る長距離機 立川 A-26(キ-77)初飛行車仲間でもある、T君が

自信のブログ 自動車愛好家  で

グランド・ツーリング 2015秋 岩手編 : 自動車愛好家

立川飛行機について、書かれていたので

本日は・・・歴史の中に埋もれた

立川飛行機が世界に誇る長距離航空機

A-26(キ-77)について、少々触れたいと思います。



立川飛行機(株)は、前進である

(株)石川島飛行機製作所(石川島飛行機)が、1936年に

軍の要請により工場所在地から改称された、戦前の航空機メーカー

現在は、株式会社 立飛ホールディングス として主に

不動産賃貸業を営む企業で、T君が紹介している、

新立川航空機も事業部門として再編成されています。



立川飛行機(株)が、生産した航空機で有名なのが、

赤とんぼの愛称で知られる九五式一型練習機



そして・・・



戦前の日本陸軍の代表的な戦闘機

中島飛行機(現富士重工業 (スバル) )が開発した一式戦闘機「隼」



二型(キ43-II)以降、約1,000機が転換生産され

三型(キ43-III)は、ほぼ全機(約1,500機)が立川飛行機により量産されました。



さて・・・長距離機 

立川 A-26(キ-77)とは、どのような飛行機だったのかと言いますと

1940年(昭和15年)朝日新聞社が皇紀2600年を記念して

東京 〜 ニューヨーク間(1万5000km)無着陸長距離飛行の

世界記録を作る親善飛行を企画した事に始まります。

機体名の「A」は、朝日新聞「26」は、皇紀2600年を表しています。



設計・製作を立川飛行機、中島飛行機、東大航空研究所、朝日新聞社の協力で

スタートした計画は、戦争の激化もあり遅々として進まず、頓挫するかに思えましたが



長距離偵察爆撃機キ74の開発に繋がる類まれな長距離飛行性能

(アメリカ本土まで飛行可能)に注目した軍部の指示により

名称が「キ77」として開発が再開



1942年(昭和17年)に2機が完成した「キ77」は

全長15.3mに対して全幅29.6mグライダーのように極端に長い翼を持ち、

翼の中は20に仕切られた燃料タンクは、ガソリン1万2000ℓ(ドラム缶60本相当)を

詰め込むことが出来ました。



エンジンは中島飛行機製「ハ105特」1030馬力×2基

高度1万1000mを飛行するため、胴体内に酸素を放出して地上に近い状態とするために、

半気密胴体を採用、特殊な液体酸素ボンベ、当時最新式の無線機、オートパイロット装備する

最新鋭の機体でした。また、パイロットが長距離飛行の際に

交代で眠れる寝台などを装備されています。



その年の11月18日に初飛行を行った「キ77」は、1943年(昭和18年)

シンガポール経由の南方迂回航路で海上交通が遮断状態にある

ドイツへの戦時連絡飛行に2号機が使用されますが、7月7日に中継地シンガポールから

イタリア領ロードス島に向かう消息不明となり

最初の目的であった長距離飛行の世界記録に挑戦は、残された1号機が

1944年(昭和19年)7月2日に満州で周回記録飛行を行い、新京〜ハルビン 〜 白城子の

参画コースを、57時間12分で16,435km飛行し、周回飛行の世界新記録を樹立しますが

戦時下の為、記録は公表されずFAI(国際航空連盟)未公認の記録とされています。



終戦後、「キ-77」は、米軍の指示により、接収され修理をした後

追浜より米国本土へ運ばれ1949年頃スクラップとされ

歴史の中で忘れ去られた存在となりますが・・・



当時、米国本土への輸送の際に、修理・整備を担当したのは

後のプリンス自動車、田中次郎技師

物造りの技術は、自動車へ引き継がれることとなります。

という事で、本日は、この辺で・・・
関連情報URL : http://y0siharu.exblog.jp/
Posted at 2015/11/18 23:23:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 飛行機 | 趣味
2015年11月11日 イイね!

国産旅客機53年ぶり!祝!MRJ初飛行!

国産旅客機53年ぶり!祝!MRJ初飛行!2015年11月11日(水)午前9時35分

国産初のジェット旅客機として

開発が進められている

MRJ(三菱リージョナルジェット)が



開発拠点のある愛知県県営名古屋空港から

チェースプレーンとして2機の

航空自衛隊T-4練習機を従え

気象調査にJAXAの「飛翔」が観測を行う

万全のサポート体制が組まれ飛び立ち、

太平洋側の遠州灘の上空を航行して、

同空港に無事着陸を果しました。



この、国産初の旅客機「YS-11」以来

約50年ぶりの初飛行に成功により

MRJの開発は完成に向けて大きく前進したことになります。





国産旅客機を復活させるという日本の長年の夢を

現実にしたMRJ(三菱リージョナルジェット)が今後挑む

小型旅客機市場は、現在、ブラジルの『エンブラエル』と

カナダの『ボンバルディア』の2社がほとんどのシェアを

占めているだけに、燃費性能や客室内の快適性などを売りにする

MRJが市場に参入することで、どこまで

この2社の牙城を切り崩すことが

出来るかが気になるところです。



初飛行のパイロットを務めた

安村機長コメント・・・・

非常にいい天気の中、初飛行が可能になりました。これまで地上走行試験を進めてきましたが、本日は離陸速度に達したら飛行機が「飛びたい」と言ってるような感じでフワっと浮き上がりました。天気も良好でしたので、その後ずっと上昇するまでの感、非常に安定した状態でした。これまでシミュレーターで訓練を積んできましたが、まさにシミュレーターの通り、飛行機が飛んでいく感じで、全く違和感を感じませんでした。

その後、着陸侵入中に風の影響で若干、機体が揺れるということはありました。ただ、これに対して操縦の修正は非常に安定しておりまして、これまで私が運転した機体の中でもトップクラスの操縦性と安定性がありました。

1時間半程度ですけど、飛行機を触ってみて、非常に高いポテンシャルを持っていると感じています。これから厳しい試験が続いていきますけど、必ずや素晴らしい飛行機が出来上がるという確信を得ました。



そういえば・・・ 

こんなニュースも・・・・





「事故なく飛べるのか?」日本『MRJ』に敵愾心むき出し中国『ARJ』だが…航空市場からは“無視”の哀愁



新幹線に続き、航空機でも中国が日本に国際受注戦争を仕掛けようとしている。中国が約12年もの長い期間を費やして開発した初の国産ジェット旅客機「ARJ21」初号機が、ようやく中国・成都航空に引き渡され、近く商業運航を始める。座席数が78~90席と、今年5月に初飛行を予定する三菱航空機の「三菱リージョナルジェット(MRJ)」と競合するサイズの中小型機。日本としては市場投入で中国に先行された格好だが、国際的な評価ではMRJが“圧勝”の様相を呈する。そのワケは?

懸命のアピール「量産態勢整った!」

「8つの国内空港間で28ルート、81回のテストフライトを順調に終えた。累積飛行時間は172時間を超え、耐久基準をクリアした」

 ARJ21を開発する中国商用飛機有限公司(COMAC)は昨年11月末、耐久試験を終えたことで、いよいよ商業飛行の準備が整ったと発表した。それに先立つ同月12日には、珠海航空ショーでデモ飛行を披露。8の字飛行などで観客を沸かせた。着陸後の機内からタラップに降りたCOMACの金壮竜会長は、満面の笑みを浮かべながら手を振るパフォーマンスを見せた。

 COMACは同月、中国国内のリース会社とアフリカ・コンゴの政府から、ARJ21を合計23機受注したことも発表。合計の受注総数は昨年11月の時点で278機に達したとしている。現地報道では「受注が300機を超えた」とされているほか、「すでに西安の工場で量産態勢に入った」、「上海の新工場も完成した」など、世界へ向けて活発なアピールが行われている。

その背景にあるのが、日本のMRJの存在だ。後発のMRJの受注が好調なのに対し、中国側には焦燥感が募っているとみられる。昨年10月に機体をお披露目したばかりで、まだ初飛行もしていないMRJだが、これまでに国内外から400機を超える受注を獲得した。スタイリッシュな機体は世界中で大々的に報じられ、注目度も急上昇している。

 航続距離が3000キロメートル程度で、主に地域間輸送を担う100席程度の中小型機は「リージョナルジェット」と呼ばれ、現在、ブラジルのエンブラエル、カナダのボンバルディアの2強が市場の大部分を占めている。だが、英アセンド・フライトグローバル・コンサルタンシーのロブ・モリス氏は米ウォールストリート・ジャーナルに「MRJは2033年までに、リージョナルジェット受注のうち22%を獲得することができるだろう」と語り、早くもMRJが2強に割って入ると予想する。

 MRJは、同型の競合機に対して燃費性能で20%程度優れ、貨物室の位置を工夫するなどして客室空間を広くするなど、日本の技術力を遺憾なく発揮した点が高く評価されている。今後、急速に市場拡大が見込まれるリージョナルジェット市場では、ブラジル、カナダの2強に加え、日本のMRJを加えた三つどもえの競争になるというのが、航空関係者の間での一致した見方だ。

開発に12年で「設計古い」

一方、どんなにアピールしても、現時点で世界の航空市場でほとんど“無視”されている中国のARJ21。それにはそれなりの理由がある。

 ARJ21の開発が始まったのは02年。MRJの開発が始まった08年には、すでに初飛行にもこぎつけ、10年には引き渡しの予定だった。しかし、その後、開発スケジュールは何度も延期され、引き渡しまでには結局、開発開始から12年もの月日を必要とした。個々のパーツは欧米製のものがほとんどだが、「設計が古い」(業界関係者)とみられているのも、開発に時間がかかりすぎたためだ。

 その上、現時点では米連邦航空局(FAA)や欧州航空安全機関(EASA)による型式認証が取得できる見通しがなく、中国以外の航空会社にとっては、そもそも購入の選択肢に入らない。このため受注は国内がほとんどで、それも購入しているのは地方航空会社が中心。中国の大手航空会社もそっぽを向いている状況だ。日本経済新聞によると、三菱航空機の関係者は「燃費、安全性、快適性など、あらゆる面で実力はMRJが上だ」と余裕をみせる。「商談では(ARJ21は)話題に上るが、欧米の航空会社で購入を検討しているという話は聞いたことがない」とまで話している。

商業運行を前に、中国の投稿サイトには「安全性と信頼性を高めて競争力のある旅客機にしてほしい」「事故なく飛ぶことができるのか?」などの書き込みも出たと韓国メディアが紹介するなど、中国国民の間にも、自国製の旅客機に命を預けるのに不安を感じる向きがあるようだ。国策として尋常でないスピードで敷設工事を進めた中国版新幹線が、11年に温州市で引き起こした大事故が連想されてしまうのかもしれない。同事故では40人もの死者を出し、当局の対応もお粗末だったことから、中国政府は世界中から批判を浴びた。

中国政府は優先購入か

だが、日本勢としては、中国勢を見くびり続けていれば、足下をすくわれる可能性もある。中国はARJ21の開発に手間取る間に、160席程度の大型旅客機「C919」の開発にも着手。昨年11月の航空ショーでは実物大のモックアップを展示し、ARJ21とともに注目を浴びた。すでに400機以上受注しているとされ、ARJ21以上に中国側は期待をしている。ただ、このC919も、開発スケジュールが延期され、初飛行は今年または来年とみられている。

 さらに中国勢にとって追い風なのは、拡大する航空機市場の多くが、中国国内にあるという点だ。米ボーイングによれば33年までに、またエアバスによれば今後10年以内に、それぞれ中国が米国に代わって世界最大の航空機市場になるとの予測を昨秋に発表した。ボーイングによれば、今後20年間で中国の航空会社は約6000機、金額にして約8700億ドル(約103兆円)に達する見通しという。

英フィナンシャル・タイムズ紙に航空業界幹部が語ったところによると「中国はすべてをボーイングやエアバスから買うのではなく、一部は国内企業から買いたいと思っている」と指摘。同紙は、中国の航空機関連メーカーが、欧米メーカーとの合弁を通じて技術力を上げてきており、別の業界幹部の話として「10~20年後にはCOMACの飛行機があちこち飛び回ることになるという感じだろう」という予想を紹介している。

 ARJ21が今年から中国国内で順調に飛行を続ければ、安全性についての評価が高まることも予想される。拡大する中国市場は日本のMRJとしても食い込みたい市場だ。だが、技術力や性能では上回っても、ARJ21やその他の中国国産機がライバルとして立ちはだかる日が、そう遠くない日にやってくる可能性も十分にありそうだ。

2015/04/.30/産経ニュース【メガプレミアム】配信



関連情報URL : http://www.flythemrj.com/j/
Posted at 2015/11/11 22:42:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | 飛行機 | 趣味
2015年08月03日 イイね!

異形のエンテ翼機「震電」の初飛行

異形のエンテ翼機「震電」の初飛行従来の索引式のプロペラ機では700km/hを

超えた辺りで速度が頭打ちになるということが

机上の理論で知られていた為に

空気抵抗を低減させるための策として考え出されたのが

前翼式(エンテ式)の航空機



エンジンを後方につけ、主翼を後ろに、水平尾翼を前に(先尾翼・カナード)装着する事で

機首を従来の航空機と比べると絞る事で空気抵抗を減少させ

後方にプロペラ配置しているので前方からのプロペラからの風を

機体が受けることがないために、牽引式航空機に比べて

飛躍的な速度向上させるという物で、

この理論で開発されたのが・・・・



ひときわ異彩を放つフォルムを持ち、タミヤのプラモデルでご存知の方も多い

幻の戦闘機として知られる、十八試局地戦闘機「震電」です。



「震電」の開発は、太平洋戦争の激化に伴い

日本本土を高々度から空襲するB29を強力な火器を搭載し上昇力の

大きい高速局地戦闘機が必要とされた為で、1944年(昭和19年)5月に

正式に試作発令がされました。



開発には、他の航空機会社に比べ手空きであった

九州飛行機と空技廠(海軍航空技術廠)から前翼型戦闘機を構想し、

研究を行っていた鶴野正敬大尉が技術指導に出向し

通常1年半は掛かる製図作業を半年で完了させるというハイペースで行われ、

戦時下の混乱期に関わらず1945年6月には1号機が完成

同年8月3日には、試験飛行にて初飛行に成功しますが

時すでに遅し・・・6日、8日と試験飛行後にエンジントラブルが発生

三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦を迎えることになります。



本日、「震電」のこんなニュースが、配信されていました・・・

幻の戦闘機「震電」:「逆らえず」博多織工場で部品製造




◇伝統工芸の職人も「兵器」製造に動員

 旧日本海軍が開発し、終戦直前に完成した幻の戦闘機「震電(しんでん)」の部品が、福岡市の博多織の工場で作られていた。徴兵で不足した技術者や、空爆を受けた軍需工場の穴を埋めるためだが、伝統工芸の職人も兵器製造に動員させられていたことはあまり知られていない。震電は実戦に投入されることなく終戦を迎え、関係者は悔しかったというが、今は自負心と安堵(あんど)という複雑な思いを交錯させている。

 震電の開発計画は1942年に始まった。高空から本土を空爆し始めた米爆撃機の迎撃が目的だった。短時間で急上昇できるようにするため、主翼と水平尾翼の位置を逆にし、プロペラを機体後部に設置したのが特徴だ。

 製作は現在の福岡市博多区にあった軍事航空機メーカー「九州飛行機」が担ったが、同社工場が空爆の被害に遭い、各地の学校や地下施設が工場に使われた。周辺にある他の業種の工場も協力を求められた。その一つが、明治末からの歴史がある博多織の「後藤織工場」(現・博多輸出絹織(きぬおり)、福岡市南区)だった。

 当時の社長、後藤長兵衛さん(99)や10年前に書かれた自叙伝などによると、44年4月、後藤さんは県の商工課長から突然、航空機部品の製造を命令された。「博多織から軍需産業に転業とは、いくらなんでも、と驚いた」と回顧する。

 だが「当時の情勢では逆らうことはできず」、木材加工すら経験がない職人たちは、知り合いの「風呂桶(おけ)職人」らを招き、四苦八苦しながら材木を削ったり曲げたりした。震電の水平尾翼や哨戒機の胴体などを製作した。

 震電は2機が完成し、45年8月3日、福岡で試験飛行された。地元郷土史家の岡部定一郎さん(84)は、このころ低空を飛ぶ戦闘機を目撃している。「キュウリのような戦闘機がシュッと一瞬で見えなくなった。速さに驚いた」。最近、写真を見て震電だったと気付いたという。しかし、終戦によって実戦で飛ぶことはなかった。

 後藤さんは戦後、博多織の振興に努める一方、戦闘機の製作については多くを語らなかった。ただ、後を継いだ長男(63)は、後藤さんから「お国のためにやっていた。三日三晩作業しても疲れなかった。飛ばずに悔しかった」という話を聞いている。

 半面、複雑な思いもあったようだ。後藤さんは長崎原爆の翌日、長崎市を訪れ被爆している。軍需工場を引き受けた以上、自分の工場の職人たちも空爆の脅威にさらされる恐れがあると思い、新型爆弾の威力を確かめるためだった。「死体があちこちにあり、ひどかった」。長崎の惨状を前に、戦闘機製造の自負心とは逆に「戦争はしてはいけない」との思いにも駆られた。

 後藤さんは今、「決して愉快な思い出ではない」と振り返る。一方、長男は父がかつて言ったことを覚えている。「戦闘機が飛ばなくて良かった。人を傷つけていたかもしれない」【尾垣和幸】

 九州の軍事施設に詳しい大刀洗平和記念館顧問の北原勲さんの話 戦争末期は戦況の悪化で、各地で航空機の製造が他業種の工場に分散されていった。ただ一般には鉄や木材を扱うのに慣れた業種が多く、博多織の工場でも作らされていたのは驚きだ。強制された人々は「日本の勝利のため」という気持ちで協力したのだろう。

2015/8/3/毎日新聞配信




Posted at 2015/08/03 23:54:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 飛行機 | 趣味

プロフィール

「河合奈保子さんの著書「わたぼうし翔んだ―奈保子の闘病スケッチ 」が、新装版として復刊されることになりました(^^♪https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail/?i_no=68329370
何シテル?   06/16 00:08
現在 117クーペ(PA95N)と足車のパジェロミニ 2台と生活しております。 どこかでお会いした時には、気軽にお声がけください。
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