
11月21〜22日 に
田園調布せせらぎ公園にて開催された
「多摩川スピードウェイ・回顧展」
本日も、東京在住のK・T氏から
届いた貴重な展示車両の画像を
ご紹介させていただきます。
今回、展示され多くの方を魅了した
一台の車が・・・
高速機関工業(株) オオタOC型 1936年式 フェートン
先日のブログ
多摩川スピードウェイ・回顧展 にてご紹介した
「第1回全国自動車競走大会」にて優勝した「オオタ」が、世に送りだした車両です。
「オオタ」は、国産自動車黎明期の昭和初期に、巣鴨郊外甲塚に創業した
太田工場から始まる自動車メーカー・ブランド
創業者である、太田祐雄(すけお)氏は、芝浦製作所で本格的な工作技術を身に着け
飛行機開発研究を行っていましたが、計画は挫折し1912年6月巣鴨郊外に
個人経営の「太田工場」を開業し山田輪盛館向けのオートバイ用ピストンやピストンリングの製造・
教材用の小型発動機、模型飛行機を造る傍ら、自力での自動車開発を計画
1917年に神田の柳原河岸に工場を移転、
自動車や船舶用エンジン修理を本業とする傍らで小型自動車の試作に取り組みます。
1922年(大正11年)に第1号車OHV4気筒965cc9馬力のOS号を完成
市販のため生産化を図るため「国光自動車」を1923年に設立しますが・・・
同年起こる関東大震災の為、、工場設備が全焼、計画は頓挫しします。
しかし、太田祐雄(すけお)氏は個人経営で太田工場を再開業
自動車や船舶用エンジン修理を手掛けながら、日本製小型四輪自動車の開発は続けられ
1932年には748ccのN-7型と897ccのN-9型のエンジンが誕生させ四輪小型トラックを試作、
再度自動車開発に乗り出しますが、太田工場は個人の経営に過ぎない零細な生産体制
が続き、1933年から1935年までのオオタ車累計生産台数は、貨物車と乗用車を合計しても
160台と伸び悩みました。
この太田工場飛躍の機を与えたのが、自動車産業進出を目論んだ
三井財閥の一角三井物産(株)1934年からオオタ車の
販売代理店業務を開始、1935年に資本金100万円を出資し
高速機関工業(株)を設立翌1936年4月には、
品川区に最新の工作機械を備えた、
年産3000台の能力を持つ新工場を竣工させたるに至ります。
当初、オオタにさほど関心を持っていなかった三井財閥がこれほどの
資本投下を行った背景には、新興財閥の鮎川義介氏が、
ダット自動車製造(現・いすゞ自動車)から旧・ダット大阪工場と
小型車「ダットサン」の製造権を譲受、技術陣の移籍も受け1934年「日産自動車」を発足、
「日本産業グループ」として伸長しつつあったことが、方針転換のきっかけとなったと
言われております。
またこの時期、高速内燃機機関(株)に
資本参加した会社の一つが
梁瀬自動車(株)(現(株)ヤナセ)で、
オオタ号の車体製造を担当しオオタ号の一翼を担います。
その後、多摩川スピードウェイにおいて1936年6月7日に開催された
「第1回全国自動車競走大会」においてオオタ・レーシングカーが
小型車クラス優勝したことは、先日のブログ
多摩川スピードウェイ・回顧展で書いた通りです。
この時期から、日本国内は次第に戦時体制へ1936年には、
自動車製造事業法が制定され、軍用トラックの生産可能な
日産、トヨタ、東京自動車工業(現・いすゞ自動車)の3社のみが自動車生産を優遇される
状況となり1937年高速機関工業は、軍需生産を目的に資本系列の委譲が行われ
三井物産から立川飛行機の傘下に移され乗用車生産を細々と続け乍ら
航空機部品や防空用消火ポンプエンジンなどの生産に徹する軍需企業として
終戦を迎えることとなります。
1947年高速機関工業は、GHQによる小型車生産許可に伴い自動車製造を再開
立川飛行機が母体という縁から、後のプリンス自動車に発展する
「たま電気自動車」の車体生産や・・・
1950年には、日野自動車がライセンス生産を開始する1953年までの2年間
ルノーの輸入代理店となり4CVの販売を行うなど、会社経営に奔走
1952年、社名がオオタ自動車変更されますが
戦後の激動期を生き抜くには小資本の独立メーカーであったオオタは
1953年から始まる朝鮮戦争停戦に伴う経済不況に耐えられず
1955年1月に会社更生法の適用、その後、くろがね3輪トラックで知られた
日本内燃機を傘下に持つ東急グループが引き受け、1957年4月に「オオタ」と「くろがね」は
合併し「日本自動車工業」を誕生させ1959年に社名を「東急くろがね工業」に改め
起死回生を目指し送りだした車が・・・
太田祐雄(すけお)氏の三男の祐茂氏が開発した
1960年発売のキャブオーバー軽4輪トラック「くろがね・ベビー」
市場では好評で、発売初年度の1960年には16,497台を生産、
順調な滑り出しを見せ、一時は息を吹き返しますが・・・
1961年スバル・360で軽乗用車のトップメーカーとなっていた富士重工業がスバル・サンバーを
発売すると、ディーラー網の薄さによる脆弱な販売力もあって売り上げは激減
1962年1月に会社更生法の適用を申請し、現在は、日産自動車の100%子会社
日産工機となり、現在に至っています。
また、「オオタ」時代に車体デザインを担当した、長男の太田雄一氏は
オオタ自動詞が、立川飛行機の傘下に入る事を良しとせず自らオオタを去り
「ワイルドフィールドモーターズ」を設立、戦後、進駐軍の持つスポーツカーの
チューンやダットサンオープンの架装を手掛け1952年に「ダットサン スポーツ DC3」の
車体デザイン設計を行う事になります。
この依頼をしたのが、「多摩川スピードウェイ」で惨敗した
ダットサン(日産チーム)の一員として、オオタ号を見つめた
後に、FAIRLADY Z の父と呼ばれる 片山豊 氏だったことは
歴史のめぐり合わせに驚きを感じますねっ!
『高速機関工業(株) オオタOC型 1936年式 フェートン』
現存車両は、この一台と伺っています。
見事にレストアされ、今回展示される迄には
いすゞ117クーペオーナーズクラブのメンバーである先輩と
太田祐雄氏の三男太田祐茂氏が設立したオオタ商会の
流れを組む「
タマチ工業株式会社」のご尽力によって実現しました。
今では、幻の国産ブランドとなった「オオタ」国産車開発の
隠れた一ページを知る上でも、貴重な昭和遺産として
皆様にも、機会があれば、是非ご覧いただきたいと思っております。
今回も、貴重な情報を提供して頂いた
K・Tさん、ありがとうございました。<(_ _)>