ドラマ仁において火消といえば“を組”。
その頭である新門辰五郎親分が実存の人物と知り、この“歩く”シリーズを始めたのでした。
今回は辰五郎さんの足跡を交えながら、散歩の様子を書こうと思います。
辰五郎さんが生まれたのは下谷山崎町(マップ①)。
“みんカラ”ユーザーには、かつての上野バイク街周辺と言った方が分かりやすかもしれません。
本名は中村金太郎。
父親は飾り職人でしたが、弟子の起こした小火騒ぎの責任をとって亡くなり、金太郎少年は浅草界隈を仕切る「を組」に身を寄せたそうです。
この時もらった名前が辰五郎。
成長した辰五郎さんは火事場で出くわした立花家のお抱え火消と大喧嘩になり、その責任をとるために自ら相手の屋敷へ。
しかしその潔さから無罪放免。
と、伝えられてますが、僕は辰五郎さんを罰することで生じるリスクを立花家は避けたかったのでは?と考えます。
なんせ子分が2,000人オーバーですから。
因みに立花家の場所は辰五郎親分の生家から近く、因縁めいたものを感じます。
話を戻しますが、このエピソードで名を上げた辰五郎さんは24歳で結婚し、“を組”の頭を継いだそうです。
やがて伝法院(マップ②)にできた新たな門の警備を任され、その時に名を新門辰五郎に改めたそうな。
つまり名字も名前も頂き物な訳で、それだけでも辰五郎さんの徳の高さが分かります。
しかし順風満帆な訳でもなく、次に“を組”は大名火消と大喧嘩になり、多数の犠牲者を出してしまいます。
奉行所は相手の非も確認し辰五郎さんを死刑にはしなかったものの、
下したのは江戸払い。
しかし江戸の町を闊歩してるのがバレ、石川島の牢獄に送られてしまうのでした。(マップ③)
え?石川島に牢獄?
そう思って古地図アプリを開くと、そこには人足寄場というのがあります。
「見張」とか「締場」とか、重苦しい施設も書かれてます。
埋め立て前で橋も無いから、アルカトラズのように孤立していたんですね。
現在はこんな感じ。
ここでまた数珠繋ぎに学んだのですが、この人足寄場とは、時代劇でも有名な火付盗賊改方、
長谷川平蔵が松平定信に提案して作られた更正施設だそうです。
無知な自分には衝撃的でした。
でも「更正」という言葉が時代劇に見る鬼平のイメージにピッタリで、ちょっと感動です。
そんな人足寄場も今は平和な公園。
明治元年には見張番所の位置に石川島灯台が建てられ、現在はそのレプリカが建っています。
これは隣の佃島の話ですが、春先に撮影した2件の佃煮屋さん。
名前が古地図に載っててビックリしました。
古地図アハ体験に夢中になりましたが、また話を辰五郎さんに戻しましょう。
記録によると人足寄場の辰五郎さんは模範的な生活をしていたそうです。
しかも運命といいますか、小石川で発生した火事が対岸に迫った時、辰五郎さんは皆を指揮して飛び火から島を護り、その功績から放免を得たそうです。
それにしても、小石川と言えば東京ドームの近く。
築地の方まで燃えたというのですから、当時の家がいかに燃えやすく、
牽いては火消が町に欠かせない存在であったことが伺えます。
隣の佃島は井戸や防火水槽の密度が高いのですが、先のエピソードから土着的に防災準備が広まったのかな?
そもそも火消って何なの?という疑問が生じたので、確認のため消防博物館にも行ってきました。
火消といっても大きく三つに別れるようで、
<大名火消>
歴史は一番古く、元々は大火の際に臨時招集された大名からなる火消。
<定火消>
江戸城及びその城下町の消防を専門とする、常設の火消集団。
旗本からの選抜で構成される。
<町火消>
上記2つが偉い人を優先して護るのに対し、町火消は庶民の見方!
男の子がなりたい職業ランキングでも上位に入っていたとか。
成り立ちは大岡忠相(大岡越前のモデルらしい)が町民を火事から護るため
いろは47組、深川本所16組という火消集団を地域ごとに割り当て、しかも運営費用は町民持ちという大胆な政策で誕生しました。
現在の23区全てを範囲にしていませんが、きっとこの頃の人口密集地はカバーしていたのでしょう。
組の違いは纏のデザインで分かるようにしていたらしい。
を組の纏はシンプル。
続いては火消の行動をザックリと。
1.火事の報せが届いたら自身番に集合し、一番乗りを目指して火事場に駆けつける。
同時に火の見櫓の係は、火の手までの距離を鐘のリズムで表し、近隣住民に随時お知らせ。
2.延焼食い止めポイントを決め、その家の上で纏を振りかざす。この時周囲の者は大団扇で火の粉を押し返したり、水を掛けたりして纏の係を護る。
3.ガテン系な集が、纏と火の手の間の家を破壊する。(小さな火であれば水で消すこともあったらしい)
4.火を消したら「消し札」という名誉の印を残して立ち去る。
こんな感じなので、定火消と町火消はどちらが一番乗りかを競い、アドレナリンが出まくり、些細な事で喧嘩になったのでしょう。
大名火消は守備範囲の違いから、出動姿にユトリ?仰々しさ?を感じます。
かなり寄り道しましたが、また辰五郎さんの話です。
その後の辰五郎さんは、徳川慶喜、勝海舟らと親交を持つようになり、
身辺警護に治安維持、そして江戸文化の宣伝マンとして、遠くは大阪まで赴いていたようです。
ドラマでは勝海舟の進言で、大阪にいる辰五郎さんを坂本龍馬が訪ねてましたね。
でもそれは仁先生を救うための架空の話な訳で、辰と龍が顔を合わせた史実は、たぶん無いと思う。
そんな伝説の火消であり、大侠客であり、江戸庶民のヒーローであった新門辰五郎さんは、
明治8年に75歳で亡くなられたそうです。
(マップ④)
数々の逸話を残し、歌舞伎の演目にもなり、現代でも尾ひれが増えていくなんて凄いことだと思います。
今回の散歩は本当に楽しかったです。
次回は坂本龍馬編になると思いますが、こちらは更に濃そうですね。
子孫が中華屋さんを営んでいると知ったので、記念に食事してきました。(マップ⑤)
まず、デカいグラスと分厚いオシボリに気っ風の良さを勝手に感じる。
いただいたラーメンと餃子は、シンプルで安心感ある基本形。
次は天津丼を食べてみよ。
ご主人はニコヤカで優しそうな方。実は新門辰五郎さんも基本的に柔和な心の持ち主で、争い事を嫌ったという記録も残されています。しかも当時としても小柄な体格であったとか。
この人については興味が尽きないな。