
全国少数派の歴史ファンの皆様今晩は、辛口おやじです。
「いざ!鎌倉」、といえば謡曲 「鉢の木」 です。
これは室町時代の初期に 「能」 を大成した観阿弥と、その息子
世阿弥の作品といわれています。
鎌倉時代の中期、時の執権・北条時頼が民情視察のため諸国を
旅して回ったといわれる廻国伝説の一説として知られています。
水戸黄門の原型の様なものといってもいいかもしれませんね。
私自身はこの手の話が大好きでして、歴史の話として実際にあった事なのかは少々疑問が残る
ところですが、中々良い話ですので今回取り上げてみました。
今宵はあなたを 「能」 の世界へちょびっとだけいざないましょうか(笑)
ではさっそく。
ある日、上野の国佐野(現・群馬県高崎市周辺)に、信濃国から鎌倉へ向かっているという僧侶
がたどり着きました。
しかし、その日はあいにくの大雪。
夜も更けてきて気温は下がるばかりでした。
僧侶は一晩の宿を求めて近くにあった家を訪ねました。
家の主である佐野源左衛門常世は悩みました。
家はひどく貧乏で、とても僧侶をもてなすことなど出来ないと思ったのです。
一度は断ったものの、トボトボと去っていく僧侶の後ろ姿を見て、何とか泊めてあげる事にしました。
しかし家には薪もなく、食べ物も冷えた粟飯くらいしかありません。
気温はどんどん下がり、体は芯から冷えてしまっています。
その時です。
源左衛門は急に立ち上がると、梅・松・桜が植えられた鉢を持ってきました。
僧侶がその美しさを褒めようとするや否や、源左衛門は鉢から木を抜き取り、囲炉裏にくべてしまっ
たのです。
「 貧しい我が家では何ももてなす事が出来ません。
せめて体だけでも暖まっていってください… 」
そのもてなしに感動した僧侶が主人に名を尋ねると、
「 私は佐野源左衛門常世という武士です 。
一族の者に所領を奪われて、今はこうして落ちぶれておりますが、
幕府への忠義の心は変わりませぬ 。
いざ鎌倉で一大事とあらば、薙刀と鎧を持ち、痩せ馬に乗って
いの一番に鎌倉に馳せ参じ、敵陣に突っ込む覚悟でおります。」
と熱く語りました。
僧侶は言葉もなく、うなずきながらこの話を聞くだけでした。
そして翌日、僧侶は厚く礼を言って家を後にしました。
しばらくしたある日、鎌倉幕府から 「急ぎ鎌倉に集まれ」 との命が各地に発せられました。
源左衛門も痩せ馬に乗り、急ぎ鎌倉に駆けつけます。
しかし鎌倉で彼を迎えたのは、なんとあの時の僧侶でした。
「 佐野源左衛門常世、あの時は世話になったな。」
そうです!
あの時の僧侶こそ誰あろう時の執権、北条時頼その人だったのです。
そして時頼は源左衛門の忠義を褒め称え、奪われた領地を取り戻してくれただけでなく、あの時
薪として火にくべた梅・松・桜の木にちなんで、加賀の梅田、上野の松井田、越中の桜井という3ヶ
所の土地を与えたということです。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
いかがでしたか?
「 いざ!鎌倉 」
源左衛門が一番に鎌倉に駆けつけると語ったその言葉は、鎌倉武士を象徴する言葉としてよく知
られていますね。
そして御恩と奉公も。
まさに鎌倉武士の姿や心意気がここにあります。
貧しくとも精一杯客をもてなす心遣いなど、日本人の源流をも見る気がします。
一方、旅の僧侶として登場してきた北条時頼は鎌倉幕府第5代の執権。
幕府の権力強化を推進するとともに、その一方で御家人や民衆に対して善政を敷いた名君として
知られた人でもあります。
また元寇の時の執権として有名な北条時宗のお父さんでもあります。
時頼は病のために執権職を譲ってから出家し、最明寺入道と名乗り、民情を見るために諸国を
巡ったと云われており、そうした伝説が各地に残っているようです。
この「鉢の木」もそうした伝説のひとつということですね。
どうですか、良い話じゃないですか~ (o^-')v
Posted at 2015/03/28 23:28:10 |
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