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ムインのブログ一覧

2011年05月25日 イイね!

あかりの寿命は3年だったのね

あかりの寿命は3年だったのねあかりの明かりが 消えた とか

あかりの命の灯が 消えた とか

あかりが暗くなった とか

あかりが最近、冷たくなった とか

あかりが昇天しそうだ とか

あたまを一周させてみても、上手い表現が出てこなかったw

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赤外線天文衛星「あかり」バッテリートラブル   毎日新聞 5月25日(水)11時1分配信

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は24日、肉眼で見えない遠くの星などを観測できる望遠鏡を備えた赤外線天文衛星「あかり」のバッテリーの蓄電量がほぼなくなるトラブルが発生したと発表した。同日午前5時半ごろ、自動的に省電力モードに入っていた。あかりは06年2月に打ち上げられ、目標寿命の3年を過ぎ約5年3カ月運用中。バッテリーは充電できる仕組みだが、何らかの理由で蓄電されていなかった。
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 宇宙航空研究開発機構は24日、赤外線天文衛星「あかり」に電力異常が発生し、観測機器の電源が切れた状態になったと発表した。目標寿命の3年を経過しており、太陽電池や機器の劣化が原因とみられる。宇宙機構が復旧を急いでいる。(時事通信)
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 「あかり」は、高度700キロ・メートルの軌道で、宇宙の原始銀河などを赤外線望遠鏡で観測してきた。2006年2月に打ち上げられ、目標とする3年の寿命を超えて運用が続けられていた。

 宇宙機構は、次期の赤外線天文衛星を18年に打ち上げる計画だ。(読売新聞)
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ふむふむ。

 「バッテリーは充電できる仕組みだが、何らかの理由で蓄電されていなかった。」

…しかし”何らかの理由”って、ばかばかしい表現だと思う。

 なにも理由や原因が無くて不具合になるか!
”今のところ原因不明”って書けばよかろうに。

 「目標寿命の3年を過ぎ約5年3カ月運用中。」

…物には、寿命があるのだから、設計寿命を越えた時点でOKだろう。
あとは、オマケの人生だから、当てにするほうがどうかしている。

地球上で大気に守られて、常温常圧で人間と同じ環境なら電子部品を使った家電製品(TVとか)の寿命は、10年~20年程度(設計寿命は10年だが実際には使用環境で変る)

地上より余計に太陽の熱放射による電波や放射線、宇宙線に曝される(被ばくする)のだから、自己修復(または生き物のようにセル単位での再生)機能でもない限り、劣化してボロボロになっていくだろう。

メモリーのセルが劣化したら、電子をポロリして、エラーという記憶違いを起こして誤動作するのは、人間の脳と同じ。
他のセルとのネットワークで、補ってもだんだんボケてくる。

太陽がしゃっくりした程度の磁気嵐でもくらったら、寿命はかなり縮むだろう(地上でも停電が起きる)し。
そう考えたら、人工衛星の目標寿命なんて、運任せで、あってないようなものなのに次の赤外線天文衛星は2018年ですか。そうですか。(宇宙開発予算は某国の圧力で削られる一方ですもんね)
Posted at 2011/05/25 15:08:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | TV,ニュースネタ | 日記
2011年05月25日 イイね!

いちごクリームパン

いちごクリームパン昨日は朝から雨だったので、デジカメ君は持って出かけなかった。

←日本6位のクリームパンのクリームをイチゴ(あまおう)クリームに換装したもの

感想は、

クリームがしっかり入っていて、重かった。

味は 甘すぎない
あまおうのほのかな香りとさっぱりした酸味がよかった。 ←添加物禁止なので、香料不使用

ただ、イチゴクリームが、しっかりしすぎて、若干重い気がする。

もう少しクリームをホイップして空気を含ませるとか、食感を軽くできたらもっと売れそうな気がする。(空気は、添加物にはならないだろう)

贅沢すぎて、パンというより、ケーキに近い。

まぁ、今以上に売れたら、生産が間に合わなくて、店主の寝る時間が無くなるから、ほどほどでよいのだと勝手に納得しておこう。

 また、先週開発していた”焼きドーナツ”も販売開始になっていた。

 トッピングで三種類(ナッツとかゴマとか○○とか)作ったということだったが、一種類は、朝一番に売り切れてたそうな。(早くもヤキドファンが出来た?)

売れるレベルにはなったが、まだ改良していくとのことなので、また改めて、デジカメ君を持って行こうと思った。


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マスターの家は、建築家の安藤忠雄氏の設計によるものだとか。

マスターいわく「とにかく 住みにくい><」

 (住む人に不便な設計をするというのは、本当だった)

 個人的には、家には、安らぎと憩いが大事だと思う。(もう、若くないし)
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Posted at 2011/05/25 13:22:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 渦潮ベーカリー | 日記
2011年05月24日 イイね!

聖書に関する素朴な疑問 5 神は何故 6000年も原罪を放置しているのか?

 本当に神がこの世を創り、その神は愛だというなら、何故この世は地獄のような有様なのか?

 この世は、悪魔が創ったとか、悪魔が仕切っているというほうが分かりやすい。

 「果たして真実はどっちだ?」

*****
 ローマ5章・神はなぜアダムの子孫の罪を即座に治されなかったのですか
     
「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった・・・。」(ローマ5:12)

 アダムは病気、疾患、悲しみ、苦痛など、価値のない遺産を子孫に伝えました。(ローマ 5:12)ある人は、アダムの子孫は直接神に不従順な行動をしていないのに、罪を受け継いだことを疑問に思います。愛のある神であれば、なぜアダムの子孫の受け継いだ罪や不完全さを治してくださらなかったのでしょうか。

 エホバはなぜアダムの子孫からアダムから受け継いだ罪を許し、罪の結果を即座に取り除くということをされなかっのでしょうか。例えば、ある人々は、アダムの罪と関係なかったアベルやその他の良い人々から、アダムから受け継いだ罪を取り除いて永遠に生きられるようにすることができたのではないだろうかと考えます。しかしながら、聖書は「罪を犯さない人はひとりもいない」と述べています。(列王第一 8:46)ですから、アベルと言えども、やはり、ダビデと同じように罪を犯していました。


 アダムの子孫は皆、受け継いだ不完全さゆえに、罪を犯しやすい傾向を生まれつき持っています。ダビデは罪を犯してしまった時に、自分が生まれつき罪深いということを述べて、神に憐れみを求めています。ダビデは、「わたしはとがと共に、産みの苦しみをもって産み出され、わたしの母は罪のうちにわたしを宿しました。」と述べています。(詩編 51:5)そのせいもあり、人類はアダムから受け継いだ罪を増し加えています。その結果、アダムの子孫のすべてがアダムから病気や死やそれに伴う苦しみを受け継いでいます。


 エホバはすべての人から、罪とその結果を即座に取り除くということはされませんでした。なぜでしょうか。それには、大きく言ってふたつの理由がありました。ひとつの理由は、神の義と公正のためです。


 人間の政府の支配者が法に対する民の違反に対して甘くなり、何の罰も加えないとすれば、どうなるでしょうか。不法は蔓延し、民の政府に対する敬意も損なわれ、無政府状態になるのではないでしょうか。


 しかし、「義と裁きは神の王座の定まった場所」です。(詩編 89:14)そして人は神の法的公正を無効にすることはできません。(ヨブ 40:8)それで、神はご自分の義と公正の原則のゆえに、感傷に負けて人類の罪をすぐに許してしまうというようなことはできませんでした。


 神ご自身のみ言葉は、『罪の報いは死である』ことを示しています。(ローマ 6:23)エホバは罪に対して、断固とした態度を取っておられます。しかし、もし、エホバが人類の罪深さを大目に見るとすれば、神はご自身の義の規準を無視することになったでしょう。そして神が少しでも義からそれるなら、それは宇宙内で不法を助長し、宇宙の主権者としての神の立場を弱める結果を招くにすぎなかったでしょう。(伝道の書 8:11)

 それゆえに、人間が罪を犯した場合、エホバは罪の許しのために贖罪つまり贖いを求められます。それは、モーセの律法の要求に示されていました。罪を犯した人は、罪の許しのために動物の犠牲を捧げることが求められていました。(レビ5:6)また、モーセの律法下では、過去一年のイスラエルの罪の許しのために特定の日が贖罪の日として定められており、大祭司は罪の捧げ物として動物の犠牲を捧げました。(出エジプト30:10)

 そのようにして、罪の許しのために贖いが求められるのは、正しいことです。罪が許されるにあたって、そうした贖いが求めらることによって、初めて、罪の重大さが強調され、罪を犯した人は、二度と罪を犯すことのないようにしようという決意が鼓舞されるでしょう。そのようにして、神の義と公正さの基準は満たされます。


 エホバは人類の罪を覆う贖いとしてご自分の最愛のみ子の完全な命の犠牲を備えられました。「この[み子]によって、わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています。」と聖書は述べています。(コロサイ1:14)み子の贖いは動物の犠牲と違って完全に罪を許す効力があります。人類の個々の人は、み子の贖いという根拠に基づいて許していただけます。そのようにして、神の公正と義の基準も満たされます。


 人間の罪をみ子の贖いによって覆っていただけるという取り決めは、人間だけに与えられている神の憐れみを反映した特権だと言えます。み使いは、み子イエスを通して神に直接完全なものとして創造されました。そのために、罪を犯した場合、自分の罪を他の人のせいにして言い訳をすることができません。それで、御使いが罪を犯した場合、贖いは受け入れられません。しかし、アダムの罪の影響を受けている人間は、アダムから受け継いだ罪のゆえに、それがなかったなら犯さなかった罪を犯してしまうことがあります。そのため、人間のためには罪の許しのための贖いの取り決めがあります。


 さらに、エホバが人類の罪をエデンでの反逆の後、すぐに取り除くことをされなかったもう一つの理由は、エデンの園で、解決されなければならない重大な論争が提起されたからです

サタンは、エデンの園で、人間は神から独立して神のように独自の善悪の基準を決めて首尾よくやっていけると主張しました。そして、神を、神から独立するという自由を被造物から不当にも奪っている偽り者と非難することにより、神の名声を傷つけました。(創世記 3:1~5)そのようなサタンの挑戦を無視することはできませんでした。もし答えを与えないままにしておくなら、神の支配権に対する確信も支持もついには弱まってしまったことでしょう。


 エデンの園で、サタンからそのような問題が提起されたために、エホバは、サタンと人間に神から独立して独自の基準を決めて行動する、いわば自治をする自由を与えることにされました。そのようにして、サタンと人間は、神から独立して首尾よく自治ができるかどうか試みる自由と時間が与えられました。


 そのために、エホバはアダムの子孫から、アダムの罪の影響を即座に取り除くということをされませんでした。

それで、アダムとエバをすぐに処罰して裁くことをされず、生き永らえるにまかされました。それでも、アダムはエホバの言葉の通り、罪の影響のために最後には死んでしまいました。
そして、これまで人間は、およそ六千年の間、人間が神から独立した結果がどのようなものになるのかを見ることになりました。
人間の歴史を通して、悪魔サタンの提起した論争が全くサタンの側の誤りであることが徹底的に証明されています。

 すなわち、悪魔サタンと人間は、神から独立して独自の善悪の基準を定めて幸福な生活を送ることはできません。人間の歴史は、戦争や争い、憎しみ、病気や問題で満ちています。エホバは悪魔サタンと人間の支配の結果が徹底的に証明された後は、ご自分の政府である神の王国によって、アダムの子孫から、アダムから受け継いだ罪の痕跡を取り除いていかれます。
 それで、エホバは、理由があってアダムの子孫からエデンでの反逆の後、即座にアダムの罪の影響を取り除くということはされませんでしたが、ご自分の方法で、ご自分の予定の時にそうされます。永遠の見地から見て、エホバがそうされたことは人間にとって最善の結果をもたらします。
*****

なるほど、この世は神が作ったとしても人間社会の仕組みなどは、悪魔が作ったとしか思えなかったが、その理由がコレだったのね。

悪魔が神に仕掛けた論争の実証実験がこの6000年間続き、この世が、酷ければひどいほど、悪魔が間違っていて、神の権威が回復され、実証実験が終わった後に人間に「ご苦労さん♪」と労われるということですか。

本当に悪魔って人間にとって迷惑千万!悪魔のような奴だ!!
それに乗せられる 神も 大人気ないというかなんというか…。

…人間って、所詮、将棋のこま 実験の素材だったのね。
Posted at 2011/05/24 13:48:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 聖書 | 日記
2011年05月24日 イイね!

聖書に関する素朴な疑問 4 神は何故 原罪を放置しているのか?

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ローマ5章・愛の神がなぜ罪と死を人間に与えたのですか

「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように―。」(ローマ5:12)

 ある人は、エホバが愛の神なのに、なぜ最初の人間アダムとエバの行動のために罪と死を人間に与えられたのか、それは残酷で厳しいのではないかと考えます。どうして神は人間に罪と死というとても大きな罰を与えて人間を苦しめるのだろうかと考えます。

 この考え方は、交通ルールを決めてその交通ルールに違反することがあれば、罰することのある当局にすべての交通事故の責任があるとみなすのに似ています。また、当局の課す罰が残酷で厳しく、当局は人々を苦しめているとみなすのに似ています。交通事故の責任は、交通ルールに違反して交通事故を起こすすべての人にあります。交通事故は、交通ルールが決められているから存在するのではありません。交通事故は、交通ルールの違反者に罰を与える当局に責任があるわけではありません。

 交通ルールは、交通事故を起こさないため、人々の命と安全のために設けられています。交通ルールとその罰は、人々の命を守るのに助けになっています。


 エホバはアダムとエバに善悪の知識の木の実からとって食べてはならないという律法を与えられました。その命令は、人間が神の支配権を尊重すべきことを意味していました。「それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」とエホバはアダムに言われました。(創世記2:17)

 これは、アダムが木の実を食べることの罰でしたが、またその必然的な結果ということもできました。エホバ神は、人類の命と福祉のために、人類がご自分の支配権に服する必要があることをご存知でした。その必要性を示すために、エホバはアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないという律法を与えられました。

 アダムとエバがエホバの命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べた時、エホバがアダムとエバに与えた直接的な罰は、エデンの園から追い出すことでした。(創世記3:23)エホバはアダムとエバを即座に処刑することもできましたが、そうされませんでした。たいへん軽い罰だったと言えるのではないでしょうか。そして、アダムとエバはエホバの親しい指導を受けられなくなりました。ですから、アダムとエバに起こることは、エホバの支配権から独立してエホバの親しい指導を拒む時、どんな結果になるかを示していました。

 アダムはサタンの言葉に欺かれなかったが、エバは欺かれたと聖書に書かれています。(テモテ第一2:14)ですから、エバは、サタンの言葉を信じて、エホバの支配権に従わずエホバから独立しても、死ぬことはなく、かえって自分たちにとって状況は良くなると考えていたことでしょう。(創世記3:4,5)そして、アダムとエバは、エホバに不従順になってエホバから独立する道を選びました。

 しかし、神の親しい指導を受けられなくなった結果、アダムとエバは年を取って死んでしまいました。(創世記5:5)アダムとエバが死ぬことは、確かに、彼らがエホバに背いたことへの罰と言うこともできましたが、それは、アダムとエバがエホバからの親しい指導を退け、エホバから独立するならば、どんな結果になるかを示していました。人間は、神の親しい指導を退け、神から独立して永遠に生き続けることはできませんでした。

 このことは、人間は、エホバに完全に従順を示し、エホバと親しい関係を維持する時にのみ、幸福のうちに永遠に生き続けられるということを示しています。アダムの子孫は、アダムとエバから不完全さと罪を受け継ぎました。そのために、生まれつきエホバに不従順になる傾向があり、病気になりやすい弱さを持っています。(詩編51:5)その結果、アダムの子孫は、最終的には死にます。アダムの子孫の中のある人々は、罪をさらに犯して神の道徳基準を無視した行動をとり、自分と他の人々に苦しみを増し加えました。


 それで、人類は、アダムがエホバに従順であり、また各々がエホバに従順であるならば、今日経験しているような苦しみはほとんど経験しないですむはずでした。苦しみは、エホバの支配権と神の律法に不従順な人間が自らもたらしています。罪と死という苦しみは人間が自らもたらしており、人間に責任があるということを意味しています。


 それで、ローマ5章が述べているように、罪と罪による死はエホバがもたらしたものではありませんでした。聖書は一人の人つまりアダムによって罪が世に入ったと述べています。また、すべての人はさらに罪を犯して自ら罪と苦しみを増し加え、自らに死をもたらしています。


 交通事故とそれによる苦しみと死を交通ルールの違反者がもたらしているのと同じです。交通ルールを設ける当局に交通事故の責任がないのと同じように、エホバに人間の罪と死という苦しみの責任はないと言えます。


 では、エホバに不従順になって罪を犯したのは、アダムとエバですから、アダムの子孫には、永遠の命を与えることはできないのでしょうか。アダムが罪を犯したために、アダムの子孫は、生まれつき罪と不完全さを受け継いでいます。アダムの子孫は、生まれつきの状態では、永遠の命を受けられない状態にあります。

 このことは、エホバ神がアダムの子孫に望まれたことではありませんでした。エホバ神はアダムの子孫が救われて、永遠に生きられるようになることを望んでおられます。(テモテ第一2:4)アダムの子孫が罪と死を受け継いだことは、アダムとエバがエホバから独立する道を選んだためにアダムの子孫に及んだ結果でした。それで、エホバはアダムの子孫が罪と死から救われて完全な人間になるように援助されることにされました。

 エホバは、そのために、ご自分の最愛のみ子の贖いという犠牲を払われました。(ヨハネ3:16)

また、アダムの子孫を罪と死から救い出すために援助するための神の政府も取り決められました。これが神の王国です。(マタイ6:10)このような備えは、エホバ神のアダムの子孫である人類に対する愛を証明しています。

 エホバは愛の神であり、人間が罪と死によって苦しむことを望んでおられません。人間が苦しんでいるのは、神の設けられた律法に違反し、神の支配権を退けたからです。人間が罪と死に苦しんでいるのは、人間の行動に責任があります。エホバはその愛により、人間がご自分の支配権に戻る道を開いておられます。私たちは聖書を読み、エホバとの親しい関係を築いてエホバ神の支配権に今から服することができます。
*****

ってことは、人間が神から独立したから、不具合を起こしているということ?

いつまでもスネてないで、親に謝って、晩御飯を食べなさい!ってこと?

神と和解して、プログラムを修復して、最新のウイルス対策用ワクチンをインストールして、セキュリティ万全にして、悪魔の攻撃に備えて、バッテリーも充電して無計画停電に備えましょうってこと?

なかなか、聖書の世界も興味深いものだったのね。

とあえず、神様が人間に対して”超ドSでない”ことは分かった。

でもなんで、悪魔の存在を許しているのか?

つづく

Posted at 2011/05/24 12:50:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 聖書 | 日記
2011年05月23日 イイね!

聖書に関する素朴な疑問 3 アダムは何故罪を犯したか

創世記3章・アダムはなぜ罪を犯したのか
「それで彼女はその実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた。」(創世記3:6)


 アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、受け取って食べました。(創世記3:6)アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、それを退けて神に対して罪を犯さないようにすることはできなかったのでしょうか。アダムは、そもそもなぜ罪を犯したのでしょうか。人間は、誘惑や試練を受けると神の律法に従うことができないのでしょうか。


 聖書は人間が神の像に創造されていることを示しています。(創世記1:27)それは、人間が神の内面的な特性を与えられているということを意味します。神の主要な特質は愛です。(ヨハネ第一4:8)ですから、当然アダムにも愛という特質が与えられました。聖書は、「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛だからです。」と述べています。(ヨハネ第一5:3)ですから、アダムの神に対する愛はなによりも、神のおきてに従うことによって表すことができました。


 聖書は神が人間の心に良心という機能も与えたことを示しています。「律法の内容がその心に書かれている」と述べられており、人間は、神のおきての基本的な原則に従いたいという願いを生来持っています。(ローマ2:15)そのことは、諸国家が聖書を知らなくても、殺人や偽り、姦淫、親への不従順などを非とする原則を自然に自国の法律の中に反映させていることから分かります。


 神から与えられている良心のゆえに、人間は悪行に誘われた時、それを不快に思う気持ちが生じます。例えば、ヨセフは人妻から姦淫に誘われた時、神と女の夫に対して悪行を犯して罪を犯さないように動かされました。(創世記39:9)姦淫を悪行とする条文は、その当時まだありませんでした。しかし、ヨセフは、結婚の取り決めは、神によって始まったというという聖書の記述を知っていたでしょう。それで、ヨセフは、自然に姦淫は神に対する悪行であると感じて退けました。ヨセフは、良心に動かされていました。


 ですから、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時、アダムも、良心に動かされて不快に感じたはずです。(ローマ2:15)アダムはその時、エホバ神から与えられていたものすべてに対する感謝に基づいて神に愛を表わし、神に不従順になって神を不快にさせたくないと良心に従って考えることもできました。そのようにしてポテパルの妻に誘惑された時のヨセフのように神への愛や感謝や良心に基づいて行動することもできました。そのようにしていたなら、アダムも神に対して罪を犯すことはなかったはずです。


 しかし、アダムは、罪を犯した後、「わたしと一緒にいるようにと与えてくださった女、その女がその木から実をくれたので、わたしは食べました。」とエホバに説明しています。(創世記3:12)ですから、アダムが罪を犯したのは、仲間の圧力でした。唯一の仲間であったエバが神に不従順になりました。アダムは神に従うのではなく、仲間のエバに従いました。


 アダムは、エバと一緒にいたいと思っていたのでしょう。そして、おそらく、アダムは、神に従って、木の実を食べないでいれば、罪を犯してしまったエバと一緒にいることができなくなると考えたのでしょう。アダムは、エバと一緒にいるようにしたいという欲望を神への愛や従順や良心よりも優先させたと考えられます。


 私たちは仲間の人間が神に不従順な時、しかも仲間の人間の多くがそうである時、神に従うのは、難しくなります。聖書は「よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない。」と述べています。(出エジプト23:2)私たちは仲間の人間の多くに従いたいという願いをもっているでしょう。しかし、アダムはよこしまな事柄のためにエバに従いました。アダムは、その当時唯一の仲間の人間であるエバが神に不従順になって、独りになっても神に従うべきでした。


 申命記32章5節にある「彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。」という言葉は、アダムにも当てはまるでしょう。アダムは、神の子供として神への愛に基づいて行動しませんでした。その欠陥は、アダム自身のものです。自由意志を与えられた人間として、アダムはその自由意志の行使の仕方に責任がありました。アダムが罪を犯したのは、自由意志の誤用であり、アダムはヨセフのように健全な仕方で思考力を働かせませんでした。


 人間は、自由意志を用いて、たとえ誘惑や試練にさらされても、罪を犯さないようにすることができます。ヨセフが、人妻に勧められても、悪行を退けたことは、不完全な人間であっても、神の律法に不従順にならせようとする仲間の圧力に抗することができることを示しています。そのことは、また、歴史を通して、誘惑や試練のもとで神に忠実を保った大勢の人が証明しています。またイエスは、どんな苦しみを受けても完全な人間が全く罪を犯さないようにすることができることの完全な証明となっています。(ペテロ第一2:22)

 アダムは、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時に、アダムは、神ではなく、人間に従いました。(使徒5:29)けれども、不完全な人間であっても、誘惑や試練を受けても、支配者として人間よりも神に従い、神の律法に従う人がいます。


 聖書の預言によると、基本的に神に対して罪を犯すことのない天と地上におけるエホバの崇拝者からなる世界が将来実現する時がきます。(啓示21:1,3)それは、神の王国が千年間支配した後の時のことです。その時、地球と人間に対する神の目的が完全に成功します。人間は永遠に神に対して罪を犯すことなく、神に愛と感謝を表わすことができるようになります。(ヨハネ17:3)
*****

えーっと。 つまり、アダムは神よりエバを選んだ。

んで、どちらかを選ばなければいけなくなった、未熟者のエバは、ヘビ(悪魔)にそそのかされた。
一番悪いのは、ヘビ(悪魔)

だけど、そもそもヘビ(悪魔)の存在を許していたのも神なので、神の管理不行き届きが、大本の原因ではないのかな~?

つづく
Posted at 2011/05/24 12:26:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 聖書 | 日記

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「年末になると思い出すうどんとそばの話 http://cvw.jp/b/267137/45747112/
何シテル?   12/29 22:38
 38年式 関西人です。 環境を住めなくする危険をはらむ原発より、LNG、光合成(食料以外のバイオマス、廃材や藻の油)を利用すべきだと思いませんか?
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