
たまに登場する地図ネタです。
先日自転車である場所を走っていて「なんだか走りにくい道路」に出くわしました。
これは以前にも話題にしたアレに違いない!とすぐさまピ~ンと来ましたよ。
場所はというと、三ヶ日町のお隣、と言っても県を跨いだ愛知県の新城市。
読み方は「しんしろ」です。「あらしろ」じゃないし「あらぐすく」でもないです。
走りにくい理由は、不自然に道路がクランク状に曲がっているからです。
クランク状の道といえば、以前話題にした...
・
地図 ~ここはもともと何だったところ?(2)~
こちらで解説した「江戸時代には、こうした見通しのきかない「カギの道」は御殿を防衛するために工夫されたもの」にあたります。
では冒頭地図に分かりやすく印を付けてみましょう。

〇で囲った場所に短い距離でクランクが二つ
→は2か所、鋭角のクランではないですが、新城税務署近くに一つと新城市民病院近くの北畑に一つ。
この道は伊那街道と呼ばれる古い道です。

これは1920年(大正9年)代の地図です。
この当時から道の形は今のままです。
これより古い地図はありませんが、おそらく江戸時代からこのままと予想します。
ちなみに守るべき城や、武家屋敷跡は

この〇で囲った新城小辺りに、新城城跡(新城陣屋跡)があったとされています。
・
新城城跡(新城陣屋跡)
これは新城市の名勝・史跡・景観の一つとして紹介されています。
新城城は、天正3年(1575年)の長篠の戦いで勝利した奥平貞昌が新たに城を築城し、長篠城から移り住んだことがその始まりとされています。
この城は、領主の移封に伴って城主の交代がしばしば起こり、また途中、公領地にもなりました。
しかし、慶安元年(1648年)に陣屋が新城城跡地に置かれると、野田城の城主であった菅沼氏の子孫によって治められ、明治維新までその支配が続けられることとなりました。
この間、新城陣屋(新城城)の北方地には武家屋敷や町屋が形成され、豊川の舟運や伊那街道の交通路を始め、馬がまるで波のように次から次へと行き交う『山湊馬浪』と呼ばれるような人や物流の拠点として栄えることとなったようです。
陣屋の廃止後は、建物や土塁などの構築物は破壊または移設が行われて更地となり、その後、畑地に利用され、大正3年(1914年)に現在の新城市立新城小学校の前身となる学舎が建設され、以後学校用地として利用されて現在に至っています。
(新城市webより抜粋)
ダブルクランクの「屋敷」という地名が書かれている場所には「最勝院」というお寺、その左には「八幡神社」、新城税務署の近くには「桃牛寺」、その近くの宮ノ前と地名の書かれた場所に「宗堅寺」があります。
お寺や神社も守りの役目の一つだったという小杉御殿と被りますね。
ちなみにこの道路、車で走る時は一本南の新城市役所前を通る道の方をよく利用していたので、全くこのクランクに気が付いていませんでした。
自転車で車通りの少ない方を選んで良かった。
Posted at 2020/12/15 20:16:17 | |
トラックバック(0) |
地図の話 | 趣味