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2020年05月31日 イイね!

初作業はうまくいかんもんだね…

初作業はうまくいかんもんだね…触り慣れないのは慣れるしかない
これにつきますわ

まさかエアバッグ1つにこんなにてこずるとは…
Posted at 2020/05/31 20:42:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記 | 日記
2020年05月30日 イイね!

開催したとして参戦チームが日本に来てくれるのかどうなのか…

開催したとして参戦チームが日本に来てくれるのかどうなのか…11月のラリージャパン開催危機報道を国内プロモーターが否定「確信を持って準備を進めています」

 新型コロナウイルスの世界的大流行で国内外のモータースポーツイベントの開催が不透明になっているなか、今年の11月に10年ぶりの復活開催を予定しているWRCの日本開催、ラリージャパンについて海外メディアから開催を懸念する記事が発信された。世界各国をまたぐ物流とコストの面で厳しいとのことが理由と伝えられるが、ラリージャパンの国内プロモーター代表がその懸念について取材に答えた。

 2020年のWRCは年間13ラウンドを予定していたが、開幕から3戦を終えた段階で中断され、その後の予定が経っていない。4戦目以降ではすでにアルゼンチン、イタリア開催が延期され、ポルトガル、そしてケニアでのサファリ・ラリーの今年の開催中止が発表されている。

 WRCの今季の再開は現在、8月6日からのラリー・フィンランドからの開催を目指しているというが、そこから11月のラリー・ジャパンまで順調に開催が続けられるのだろうか。ラリージャパン国内プロモーターの高橋浩司代表に聞いた。

「新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大により、WRCを含むモータースポーツ全体が厳しい状況下に置かれています。FIAやWRCプロモーターは8月上旬のフィンランドからの再開を目指して準備を進めています。フィンランド政府がイベント開催の制限を解除し、ラリーフィンランドが無事に開催できたとすれば、ファンや関係者にとっては何よりの朗報となるでしょう。しかしながら、新型コロナに対する状況は国によりまちまちですから、一事が万事というわけにもいかないと思います」

 11月の日本開催、ラリー・ジャパンに向けての準備はどのような状況なのか。日本の非常事態宣言の影響はどの程度あるのだろう。

「当初の予定どおり11月開催に向けて、自粛期間中も含めて全力で開催準備を進めています。開催初年度となる我々にとって、春の時期に2カ月も動きが制限されたことは大いに痛手ではありますが、愛知・岐阜の両県を始めとする各自治体や行政機関、協賛社の協力も受けながら一生懸命取り組んでいます」

「開催に向けた準備の一環としては、FIAのWRC担当チーフスチュワードのティモ・ロウティアイネン氏(マーカス・グロンホルムのコドライバー)を座長とした『ラリージャパン・タスクフォース』を組織し、メンバーとしてFIAオブザーバー、WRCプロモーター、他国のオーガナイザー経験者やメディアオフィサーなど多彩な顔ぶれが加わって、随時ビデオ会議を行いながら進捗を共有しつつアドバイスもいただいています」

 そんななか、海外メディアからラリージャパン開催に向けての懸念の報道が流れた。

「一部メディアに、ラリーニュージーランドとラリージャパンが開催の危機という内容の記事が出たことは承知しています。直後にWRCプロモーターから連絡があって、そのような話はどのレベル、どの段階でも話し合われたことはないと説明を受けました。ニュージーランドと日本がヨーロッパから遠く、物流の関係でお金も時間もかかることは事実ですが、我々は日本大会の開催について、確信を持って準備を進めています」

 日本の非常事態宣言も全国で解除され、準備が本格的に進むが、当然、イベントの開催に向けては新型コロナの感染防止対策が求められる。

「もちろん、開催にあたって感染症対策は求められると考えています。大会本部を置く愛知県の保健衛生担当局と連携をとりながら、運営ガイドラインを作成し、感染防止のための手立てを打っていきます。この準備のため、チケットの発売は当初の予定から少し遅らせざるを得ないかもしれません。詳細が決まりましたら、大会公式サイト等を通じてお知らせします」

 世界的に見れば日本の感染者数などは少ないが、WRCを開催予定の国々ではまだまだ、出口は見えていない

「この数か月の間、多くの各国オーガナイザーが苦渋の決断をするのを見てきた我々としても、楽観的であってはならないと思います。それでも我々は社会的責任を果しつつ、再びWRCの熱狂を取り戻すため、準備の手を緩めることはありません。ファンの皆さんにも何かしらの不便をおかけするかもしれませんが、それを上回るエキサイティングなラリーをお見せできるように頑張りますので、楽しみにお待ちください」

 10月からはF1日本GP、そしてMotoGPもてぎ開催、そして11月19日~22日にはWRCラリージャパンと、世界選手権が立て続けに国内で開催が予定されている。これまでとは異なり、これからのイベント開催は観客への安全面での対策などラリージャパンだけではなく、国内すべてのサーキットに新しい概念と課題が突きつけられる難しい状況だが、日本のモータースポーツを少しでも盛り上げられるよう、リアルなモータースポーツ観戦を応援したい。
Posted at 2020/05/30 20:02:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年05月30日 イイね!

40周年ですからね〜

40周年ですからね〜アウディ「クワトロ」が40周年! 記念すべき初代クワトロはどんなクルマ?

■故フェルディナント・ピエヒ博士、入魂の一台

 新型コロナ感染症による世界的な惨禍の影響を受けて、少なくとも現状では記念イベントの類は予定されていないものの、2020年はアウディの象徴ともいうべき「クワトロ」の40周年であった。

 長らくオフロードカーの専売特許であったはずの全輪駆動を、オンロード用のハイパフォーマンスカーに採用。ハイパワー化には必須条件であるトラクションの向上を支えるという、現在では古今東西の自動車メーカーで常道となったテクノロジーを、初めて具現化・実用化したのがアウディだった。

 今回は、テクノロジーコンシャスなメーカーの最右翼、アウディにおける「クワトロ」という概念を初めて世に問うた、偉大なるパイオニア。その名もアウディ「クワトロ」について、お話しさせていただくことにしよう。

 アウディ・クワトロは、1980年パリ・サロンにおける正式デビューから遡ること1、2年前の1978年ごろから、早くもヨーロッパの自動車メディアの新車スクープコーナーなどを賑わしていた。

 わが国においても、故ポール・フレール氏が「カーグラフィック」誌にプロトタイプの試乗記を寄稿し、絶賛とともに紹介したこともある。

 にも関わらず、筆者を含む当時の自動車ファンは「4WDのオンロード向け高性能スポーツカー」という可能性など、まるで考えられなかった。

 1966年の英国にて、ファーガソン社製フルタイム4輪駆動システムとともに登場した超高級スポーツクーペ「ジェンセンFF」という先達があるものの、全輪駆動はあくまでオフロード向け、クロスカントリー車向けテクノロジーというのが当時の常識だったのだ。

 しかし、かのフェルディナント・ポルシェ博士の孫で、自身もポルシェで初代「911」や、レーシングプロトタイプ「917」などの傑作を手掛けた天才的エンジニアであり、のちにフォルクスワーゲン・グループ全体を率いる経営者としても剛腕を奮うことになる故フェルディナント・ピエヒ博士は、世間並みのエンジニアとは一線を画した、独創的な見解を持っていたようだ。

 1972年、同族経営のポルシェを辞してフォルクスワーゲン傘下のアウディに移籍したピエヒ博士は、30歳代半ばの若さで技術担当役員に就任。

 1976年に登場した2代目「100」にて、いまなおアウディ・テクノロジーにおけるアイデンティティとなっている直列5気筒ガソリンエンジンを初めて採用した。

 そしてこのエンジンに、一基のターボを組み合わせてアウディ・クワトロにも搭載。当時の技術レベルからすれば、充分ハイパワーと称された200ps(本国仕様)をマークすることになった。

 一方、モノコックは2代目アウディ「80」のクーペ版であるアウディ「クーペ」と共用するものの、前輪のストラット式サスペンションは同じアウディでも上級車にあたる「200」から流用。

 リアサスペンションもアウディ200の前輪用を前後反転して使用している。またブレーキも「クーペ」の前ディスク/後ドラムに対して、前ベンチレーテッドディスク/後ディスクにグレードアップされた。

 エクステリアについても、拡大されたトレッドとワイドなホイール/タイヤに対応すべく前後のフェンダーをブリスター形状とし、エアダム一体型バンパーとサイドスカートを装備。

 アウディ・クーペでは後期バージョンまで標準設定のなかった、ウレタン樹脂製の大型リアスポイラーも装着された。

 しかしこのクルマでもっとも注目すべきポイントは、やはりドライブトレインだろう。とくに前後のディファレンシャルとは別に、空転時にはマニュアル操作でロックも可能な、ベベルギヤ式メカニカルセンターデフを設けるフルタイム4WDシステムは、悪路での走行を想定した従来のクロスカントリー4駆たちとは一線を画していたのだ。

 そして、この新機軸によって獲得した強大なトラクション性能は圧倒的なもので、ドライな路面でもハンドリングが格段に向上したのはもちろん、雨や雪などの悪条件下にあっても、ハイスピードでクルーズをこなすスタビリティは、当時としてはまさしく異次元のものと称された。

 このデフシステムは1986年に大きな改良が施され、前後軸いずれかが空転した際の差動制限を自動的に作動させるトルセン式に進化。デフォルトでのトルク配分は50:50、ウォームギヤが差動制限をかけると最大75%のトルクを前後いずれにも配分できた。

 さらに1989年には、デビュー以来SOHC・10バルブだった5気筒ターボエンジンのシリンダーヘッドをDOHC・20バルブに進化させることで、最高出力は220psにアップ。

 結局1991年をもって生産を終えるまでに、11452台がラインオフしたとされている。

■WRCの歴史、高性能スポーツカーの歴史の改革者となったアウディ・クワトロ

 アウディ・クワトロの登場は、高出力・高性能スポーツカーの世界に、まさしく激震ともいうべき影響を与えることになった。そのパフォーマンスを初めて世に知らしめたのは、ラリー競技での活躍である。

 アウディがワークス体制でラリーへと進出するというニュースが報じられた際には、当時としては大柄なボディに複雑な4輪駆動システムを持つことから「ラリーカーとしてはヘビー過ぎる」と危惧する批評がメディアに散見された。

 ところが当時のFIAレギュレーションにしたがって、まずはグループ4にホモロゲートされたアウディ・クワトロは、1981年シーズンから世界ラリー選手権(WRC)にフル参戦。

 ハンヌ・ミッコラ選手がいきなり2勝を挙げたほか、ミシェル・ムートン選手が第8戦「サン・レモ・ラリー」にて女性初のWRC優勝も果たすことになった。

 そして、本命であるグループBにホモロゲートされた翌1982年シーズンには、スティグ・ブロンクビスト選手も加入し、この年コンストラクター(製造者)部門の世界タイトルを初獲得。

 さらに翌1983年シーズンにも、エースドライバーのミッコラ選手にドライバー部門タイトルをもたらすなど、ラリー界にドラスティックな一大革命をもたらす原動力となったのだ。

 この結果、グループB時代とそれに続くグループA時代以降のラリー界では、ターボチャージャー+4WDが必須条件となり、ランチア「デルタHFインテグラーレ」やトヨタ「セリカGT-Four」、三菱「ランサー・エボリューション」、スバル「インプレッサWRX」などのフォロワー車が続々と登場することになる。

 また市販スポーツカー/スーパーカーの分野においても、ポルシェやランボルギーニなど超高級ブランドの最高性能モデルは、いまや4WDであることが当たり前の時代となってしまっている。

 もちろん、オンロード用フルタイム4WDの創造主たるアウディにおいても、クワトロの技術を継承するモデルが数多く誕生した。そして誕生から40年を経た現在でも、すべてのアウディ製4WD車が「クワトロ」名を掲げている。

 すべての起源であるこの元祖クワトロは「オリジナル」を意味するドイツ語の接頭語「ur」がついて「urクワトロ」と称されることもあるようだが、筆者はWRCの現役時代にホイールベース短縮/ハイパワー版の「スポーツクワトロ」との区別のために呼ばれた「ビッグクワトロ」の愛称を、あえて推すことにしたい。

 このモデルは「ビッグ」の名こそ相応しい偉大な一台。自動車史上に冠たる至宝であることを、将来にわたって記憶に残すためにも。
Posted at 2020/05/30 19:58:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | AUDI | 日記
2020年05月30日 イイね!

最近はこういうの減ったよね…ってかこの記事の後編はいつ出るのやら…

最近はこういうの減ったよね…ってかこの記事の後編はいつ出るのやら…「ロータス・AMG・ザガート」昔は熱かった! 海外と日本の夢のコラボを実現したカスタム国産車【前編】

今となっては希少性の高さも際立つモデル

 メーカーが発売したクルマを、アフターマーケットが自由な発想で作るカスタムカー。でも国産車の中には、自動車メーカーや系列会社自らがカスタムしたクルマがある。そこでこの記事では、そんなメーカー純正カスタムカーを前後編で紹介。前編となる今回は、海外メーカーとのコラボで生まれたカスタムカーをお送りする。

あの「AMG」が手がけた三菱車があった!

 メルセデス・ベンツのチューナーとして有名なAMG。かつては独立系メーカーだったが現在はダイムラーの傘下に入り、名前も「メルセデスAMG」になっている。そのAMGが、他メーカーのクルマチューニングした数少ない例がある。それが、三菱 デボネアV ロイヤルAMGと、三菱 ギャラン AMGだ。

 ダイムラーと三菱といえば、近年は資本提携を解消したり再開したり……の関係にあるが、当時は明確な接点はなかったし、まだ独立していたAMGはなおのこと。おまけに、当時からライバルのトヨタ クラウン・日産 セドリック/グロリアよりも地味で「三菱系企業の重役車」的な印象だったデボネアが、AMGのいかついエアロパーツで派手に装われたのだから、当時はとても驚いた。なおAMG仕様は、1986年のデボネアV発売当初からラインナップされていた。

 デボネアVでは、AMGは外装を手がけたのみだったが、1989年になって6代目ギャランに設定されたギャランAMGでは、エンジンのチューニングも行われていた。

名門ロータスがチューニングした「ハンドリング・バイ・ロータス」

 世界に名だたるトラック・バスメーカーのいすゞは、かつて日本国内で乗用車やSUVの販売を行なっていたものの、2002年に撤退してしまった。しかし東南アジアや南アフリカなどでは、現在もピックアップトラックやSUV、MPVの販売が継続中だ。

 そのいすゞといえば、ちょっと古いクルマファンならアメリカのGM(ゼネラルモーターズ)と密接な関係を築いていたことを覚えているだろう。GMが業務提携をしていたメーカーは枚挙にいとまがないが、1986年から1993年まで、かの名門スポーツカーメーカー・ロータス(ロータス・カーズ)も、GM傘下にあった。

 そこでGMは同門のいすゞやオペル/ボクスホールなどに、ロータスが味付けしたモデルの展開を開始、ジェミニやピアッツァ、さらにはSUV(クロスカントリー4WD)のビッグホーンまで「ハンドリング・バイ・ロータス」を設定。ブリティッシュグリーンの外装色、レカロシートが与えられるなど、スペシャル感いっぱいの装備や内外装が魅力的だった。

 ちなみに1990年代前半、SUVを自社ラインナップに持っていなかったホンダは、いすゞやジープ、ランドローバーからSUVを調達していた。ビッグホーンは「ホンダ ホライズン」として販売されたが、これにもちゃんと「ハンドリング・バイ・ロータス」が存在。ホンダエンブレムでロータスチューンという、F1好きにはワクワクするような仕様だった。

「デ・トマソ」に「ザガート」イタリアンブランドとの華やかなコラボ

 イタリアのメーカーが国産車のチューニングを行なった例といえば、ダイハツ・シャレード・デ・トマソを思い出す。1983年に2代目に進化したシャレードには「ターボ」がラインナップされていたが、それをベースに、イタリアのデ・トマソがチューニングしたのが、シャレード・デ・トマソ・ターボだ。

 実は初代シャレードにもデ・トマソ版があったが、これはショーモデルのまま終わっていたこともあり、また1980年代初頭では「パンテーラ」を生んだデ・トマソのネームバリューはまだ大きかったため、発売当時は大きなインパクトがあった。

 シャレード・デ・トマソは、1世代スキップして1993年登場の4代目に再び復活している。どちらもデ・トマソプロデュースのエアロ、ピレリのタイヤ、シートはレカロでステアリングはナルディ……と、名門ブランドで身を包んでおり、華やかでスポーティなイメージで人気を博した。なお、4代目シャレードのデ・トマソはターボエンジンではなかったが、その代で唯一の1.6リッターエンジンを搭載して、スポーティさをアピールしていた。

 このほかシャレード・デ・トマソには、エンジンをミッドマウントしてオーバーフェンダーを装着した、「和製プジョー205T16」のような「デ・トマソ926R」という刺激的なクルマが1985年の東京モーターショーに出品されたが、市販化されずに終わっている。

 そしてイタリアとのコラボによるメーカー純正カスタムカーいえば、初代ハリアーと2代目ハリアーには、イタリアの老舗カロッツェリア「ザガート」による派手なエアロを与え、専用ローダウンスプリングを採用したカスタムモデル、ハリアー・ザガートがあった。

 トヨタ車のカスタマイズなどを行なっていたモデリスタとザガートのコラボモデルで、ディーラーで販売された「メーカー純正カスタムカー」だ。初代ハリアー・ザガートは1998年に200台、2代目ハリアーザガートは2006年に250台を販売している。
Posted at 2020/05/30 19:35:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記
2020年05月30日 イイね!

まだフェンダーミラーとドアミラーが混在していた時代だもんな〜スタリオンはフェンダーミラーでも良いかもw

まだフェンダーミラーとドアミラーが混在していた時代だもんな〜スタリオンはフェンダーミラーでも良いかもwあのジャッキー・チェンもご愛用!?ポルシェと互角の勝負を繰り広げた三菱 スタリオン【MOTA写真館】

三菱 スタリオンは、1982年から1990年まで製造販売された三菱の3ドアノッチバッククーペ。日本車初の可変バルブ機構式3バルブインタークーラーターボエンジンを搭載し、ポルシェ 924 ターボと熱い戦いを繰り広げた。

潜在能力が高いコンパクトスポーツカー

1982年に「ヘラクレスの愛馬、アリオンが今、星になって帰ってきた」のキャッチコピーでデビュー。北米市場でのライバルはポルシェ 924 ターボであったため、日本の自動車雑誌などでも比較されていた。ライバルのポルシェ 924 ターボとは、互角の戦いを繰り広げ、加速対決、高速巡航や直進安定性においては、もう少しでポルシェと肩を並べるほど数値を記録している。

1984年、国産市販車初の可変バルブ機構式3バルブエンジンにインタークーラーターボを組み合わせた「シリウスDASH3×2」搭載の「2000GSR-V」が登場した。

ドラマや映画スターに大人気

1989年、石原プロモーションが制作したテレビ朝日のドラマ「ゴリラ・警視庁捜査第8班」で、ガルウィングドアに改造されたスタリオンが登場。ガルウィング仕様のスタリオンは、後に5台限定で販売された。

また、1984年に公開された「キャノンボール2」では、ジャッキー・チェンとリチャード・キールの愛車として起用。さらに、ジャッキー本人もプライベートでスタリオンを所有していたという逸話も残っている。

三菱 スタリオン VS ポルシェ 924 ターボ 走行テスト比較

【0-400m加速】

三菱 スタリオン:16.60秒

ポルシェ 924 ターボ:16.62秒

【0-100km/h加速】

三菱 スタリオン:10.86秒

ポルシェ 924 ターボ:9.39秒

【最高速度】

三菱 スタリオン:186.28km/h

ポルシェ 924 ターボ:200km/h

スペックや価格

■全長×全幅×全高:4,410mm×1,695mm×1,320mm

■エンジン:直列4気筒 2000cc SOHC ターボ

■最高出力:145馬力

■最大トルク:22.0kgm

■トランスミッション:5速MT

■駆動方式:FR

■価格:199万5000円

※スペックは三菱 スタリオン GSR-II

Posted at 2020/05/30 19:32:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自動車業界あれこれ | 日記

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何シテル?   04/27 19:18
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