ここ10年くらいの間に
伊勢神宮を何回も訪れています。かつては淡路探索に、ここ数年はF1現地観戦と組になっています。この伊勢神宮について過去にいろいろ考察している記録がありました。この時点では何か本を読んでいたわけではなく、
「実は、伊勢神宮は
比較的“新しい”。ここが神道発祥の地とか皇室発祥の地というわけではなくて、大和朝廷が比較的安定してからこの地が選ばれたわけです。」(2013.05.29 ブログ)
と書いていました。これは公式の歴史でもそういうことになっている話ですから、別にどうということはない話です。しかし、更に考えてみると、アマテラス(神鏡)が皇居を出て各地を転々として伊勢に落ち着いたというのも不自然な話ではあります。そこで、今年のF1観戦→伊勢神宮の前に神宮や神話に関する本を何冊か読んでみました。
伊勢神宮の謎を解く ──アマテラスと天皇の「発明」武澤秀一
日本の神々 (講談社学術文庫) 松前健
大嘗祭 (ちくま学芸文庫) 真弓常忠
大昔のことだから真実はわからないわけですが、例えば、
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古代史について何となく思っていたことを改めて整理することができた。「伊勢神宮の謎」にとどまらず伊勢神宮を一つの切り口として日本の神々(神話)や天皇(制)の起源に迫る内容と言っていい。大きくは、国の形成・統一に伴い各地それぞれの神々が「国の神話」に統一されていく過程があり、伊勢神宮はそのための目に見える装置だったという観方もできるだろう。
本書を読む以前より最高神とはアマテラスではなく造化三神でなければおかしいと思っていたから、もともと高皇産霊神が祀られていたという話にはさほど驚かなかった。重要なのはそこではなく、「神の子孫たる天皇」なる観念は自分(本書においては天武天皇とする)の子孫に皇位を継がせるために作られたのではないか? という点である。折口信夫は天皇即位に際し天皇霊が降りることが重要と言っていたと思うが、もともと肉体の血統は本質的でなかったのかもしれない(本書においては高皇産霊神の絶対的権威の下で推挙されて王になると表現される。この際、王は高皇産霊神の子孫ではない)しかし、神の子孫ということが本質ということになれば血統は絶対的となる。「万系一世」とは本質ではなく欲が作り出したものかもしれない(この点は偏狭な復古主義が散見される昨今、現代的な意味でも重要と思う)
ここに要約しきれないが、その他の論点についても本書の描く古代史は筋の通った魅力的なものになっている。ただ、どこまでが著者の持論でどの程度は支持されているものかわかりにくい。また、「外来の神」という観念が登場し高皇産霊神も高句麗と結び付けられているが、そもそも弥生人が縄文人よりかなり後の時代に列島にやって来た人々であるので、“神を連れてきた”のなら土地にとっては外来だが人にとっては外来ではない。そういった「日本人の起源」的な視点は脇に置かれている。このため、例えば天孫降臨も上述の天皇制創造のための要請という解釈のみであり、弥生人の地理的移動を象徴するという視点はない。著者としては議論が拡散しないように論点を絞ったのだと思うが、私としては物足りない点もあった。
ーーーーーーーーー(『伊勢神宮の謎を解く』amazon レビュー)
(2013年のブログ)
比較的新しいのは伊勢神宮だけでなく、神話についても記紀編纂の時点での公式なストーリーということであって神代から伝わる文書ではなく"比較的新しい"ということが重要です(これに対して、いわゆる古史古伝は「ホントに古いよ」と装って登場したんでしょう)
もっというと天皇制も「比較的新しい」のであって、弥生時代には将来天皇家になる可能性のあった血統は各地にたくさんあった、と考える方が自然でしょう。その後、現実に中央集権的な国を作っていく中で各地の各時代の神々も
記紀神話という一つのストーリーの登場人物として集まってくることになった.....
(ただキリスト教が広まるときに各地の土着の神が悪魔ということにされたのとは様子が少し違った。)
....とういうような感じらしいが、更に重要なのは時間をかけてある程度ちゃんとした本を読むことが大事で、
結局「急がば回れ」ということ。
です。
Posted at 2019/10/21 06:43:33 | |
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