わたしの大好きな書物
『利根川図志』。
著者は
「赤松宗旦(そうたん)」。
いつか必ず手に入れたい和本です。
このたび
赤松さんの復元生家を
やっと見に行けました。
前日に
手持ちの
iPhone 7を
iPhone 15に変えていたため
なんと、外ではインターネットにつながらず、
宗旦さんの家が
「徳満寺」のそばにあるのは
何度も地図で確認済みだったのですが、
肝心の「Googleマップ さま」が開かない!
(原因は、
「PNP認証の失敗」。
帰宅後、y.u mobile の
「APN構成プロファイル」をダウンロード、
インストールしたら、あっさり開通)
お寺の方に
「今日スマホが使えないので
お手数ですが、
赤松宗旦旧居跡まで
どう行けばいいか教えていただけますか」と質問。
そしたら、なんと
ご住職の奥さまが
お寺の参道脇にある
趣き深い石段を降りて、
行く道がはっきりわかる場所(下の地図の星印)まで
連れて行ってくださいました。
(まだまだ先までご案内してくれそうな雰囲気でしたので
「もうだいぶ遠くまで来てしまいましたので
ここからは1人で大丈夫です。
2本ある道の、手前ではなく
向こう側の道をまっすぐですね。
常陽銀行の向かいが『宗旦さんのお家』ですね。
ご案内、本当にありがとうございました。」
とごあいさつし、ズンズン進みます。
ふと振り返ると、奥さまがまだ見送ってくださっています。
ちょっと感動....)
スマホを持たずに
人に頼りながらの散策も
いいものですなーー!
かつての賑わいの残り香が
かすかに漂う
旧道の雰囲気満載の中を歩いていくと、
自分でも胸が高鳴るのがわかります。
あった!!
宗旦は、
布川に住み
医業を営むかたわら
利根川流域にまつわる歴史・伝説・地理等を調査し、
『利根川図志』として世に送り出しました。
この著書こそ、
民俗学の父ともいわれる「柳田國男」が
少年時代に読み、深く感動し、
民俗学を志すきっかけとなった本なのです!
この建物は、
利根町指定文化財として一般公開しており、
室内には、
宗旦の書いた利根川図志・銚子日記などの資料が
展示されています。
わたしにとっては、まさに
宝の山。
『利根川図志』執筆の動機は、
天保11(1840)年、
老中・水野忠邦による
「天保の改革」が始まり、
印旛沼の開発が計画されることによります。
それは単なる新田開発ではなく、
北浦‐鹿島灘間の運河開削、
印旛沼と江戸湾岸・検見川浦間の運河開削など
東北地方の物資を積んだ船が、
太平洋から江戸に直行できる物流幹線を整備する計画。
(実際に宗旦さんが触っていたものが目の前に!)
利根川流域の環境に与える影響は大きいでしょうね。
だからこそ
自分の故郷である
利根川中下流域の
自然・歴史を網羅した書物を作り、
後世に伝えようとしたのでしょう。
紹介されている地域は
利根川中・下流域(現在の
渡良瀬川合流地点から
太平洋河口)。
(これは、さっきお参りした
「得満寺」の
「地蔵市」の様子)
茨城県・古河市から千葉県・銚子市までの
広い流域が対象で、
各地の名所・旧跡・名産品・風土・風習などを、
多数の挿絵を交えて紹介しています。
この、
挿絵がこれまたいいんだなー。
挿絵を描いた絵師も多彩。
宗旦自身が残した
『雑話』には、
葛飾北斎、葛飾為斎、山形素真、湖城喜一、
玉蘭斎貞秀、一立斎広重の名が見えます。
続編については凡例に、
「而して
上利根川の方、亦継で筆を起こさむとす、
その考察においては、亦
上武諸哲の教を期つ」とあり、
上流域を対象とした
続巻の構想を持っていたことがわかります。
(出版前の
江戸町奉行との交渉の様子、
出版後に
誰に何冊、販売を依頼したかなどのメモ、
お世話になった方のうち、
誰に寄贈したかのメモ、
出版後の販売促進の様子の日記、などなど
よだれが流れっぱなし)
続編執筆途中の
文久2(1862)年、
宗旦は57歳で亡くなります。
ついに続編は完成しませんでした...。
しかし!
『利根川図志』出版(安政5(1858)年)後、
12,3歳の柳田國男少年の心を躍らせ、感動させ、
後の世に
日本の民俗学を確立させていきます。
なんという
壮大なるドラマ。
宗旦の精神は、見事に受け継がれたと言ってもいいでしょう。
あ~、
本当にすばらしく
充実した時間。
このあと、
宗旦さんのお墓参りに行きます。
また、必ず来ます。
かつて河岸でにぎわった
「布川」。
徒歩での散策は
大正解!
興味深い建物、道が満載です。
鎌倉街道も近くを通っています。
(この道ではない)
古を感じさせる
セクシーなカーブ♪
徳川家康ゆかりのお寺
「来見寺」に着きました。
「来見寺」は、
府川城主・豊島頼継により、
永禄3(1560)年に創建。
当初は、
「頼継寺(らいけいじ)」といいましたが、
徳川家康の上意により
名が改められたといいます。
「来見寺」の中で
「赤門」は最も古い建造物で、宝暦5(1755)年に再建。
家康公ゆかりの寺の門ということから、
特別に赤く塗ることを許されています。
そばには
「赤門や おめずおくせず 時鳥(ほととぎす)」と刻まれている
小林一茶の句碑が。
ご朱印、左上に
「松替の里」とありますね。
これはどういうことだっ、
ということで
帰宅後、早速調査。
(家康さん。
鹿島神宮参詣の途中、当寺に立ち寄った際、
お寺に生えていた松の木をたいそう気に入ったらしい。
そこで、
その松を家康さんに献上。
返礼として江戸城に植わっていた梅の木が贈られたため、
「松替えの梅」として現存しているそうです(見逃したー)。)
赤松宗旦さんのお墓を
お参り。
「墓誌」には
「天明(1781~1789年)」から
「昭和」までの
赤松家の方々のお名前が。
壮大な歴史も
一人ひとりの生きざまの
積み重ねですね。
Posted at 2024/04/21 13:42:47 | |
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