昭和3年、
日本の公園設計の父・本多静六博士が、
槻(つき)川の景観を見て、
京都の嵐山に似ていることから名付けた「武蔵嵐山」。
それ以前は
「菅谷」と呼ばれており、
武蔵嵐山駅も
昭和10年に改称するまでは
菅谷駅だったそう。
なーるほど。
昔から
「武蔵嵐山」という地名には違和感があったのですが
納得、納得。
この「武蔵嵐山」、
歴史的には、
平安末期から鎌倉時代にかけて
日本史に名をとどめた木曽義仲や畠山重忠など
坂東武者ゆかりの地。
今日は
鎌倉時代に御家人として源頼朝を支え、
後世に「武士の鑑(かがみ)」と讃えられた
畠山重忠(はたけやま・しげただ)の館跡に
行ってみました。
「県立嵐山史跡の博物館」で、まずはおべんきょ。
比企地域の平安末期から戦国時代について
学習できる施設です。
「畠山重忠」公、御自らご説明してくださいます。
源頼朝から重忠にあてた手紙(複製)。
頼朝さんの文は、意外と仮名が多く
読みやすい。
大活躍の重忠さん!
このあとに行く「大蔵館跡」周辺には
中世からの「字名」が盛りだくさん。
ロマンにあふれています!
菅谷館跡から出土の板碑(1453年)。
いろいろな板碑を見てきましたが、
金泥が残っているものは貴重。
菅谷館が記載された「吾妻鏡」。
博物館の南側に
重忠の居館と伝えられる
菅谷館(すがややかた)跡(国史跡)が広がっています。
都幾(とき)川断崖上の台地にあり、
本郭を中心に
各郭が同心円状に配された広大な平城です。
この館跡の広大さ、
土塁、堀の壮大さは
写真では伝えられません。
菅谷館跡の近くには
鎌倉街道・上道(かみつみち)が走り、
重忠もこの道を通って鎌倉へ馳せ参じました。
重忠公、お邪魔しております。
館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、
館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。
館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、
その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、
それぞれの郭を土塁と堀で防備している。
土塁の遺存状況は良好であり、
郭の配置や土塁の構築法には
近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、
本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、
鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。
中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、
保存度もきわめて良好である。
1205年、
重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との
虚偽の命を受け、130騎ほどを率いて
ここ、菅谷館を出て鎌倉に向かいました。
武蔵国二俣川
(二俣川の戦い、鶴ヶ峰の戦い。現在の神奈川県横浜市旭区)で
北条義時を大将軍とする数万騎が
自分に差し向けられたことを知った重忠は覚悟を決め、
わずかな兵で踏みとどまって
義時の大軍を相手に奮戦。
愛甲季隆に射られて討ち死にしました。
享年42。
なんか、鎌倉時代は
讒言を用いて人を陥れるパターンが
多いなー。
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神社仏閣 | 日記
Posted at
2022/02/05 19:18:20