長篠城の攻防戦で
使者として武田軍の包囲をくぐり抜け、
徳川家康と織田信長に救援を直訴したあと、
長篠城に戻ったものの
武田軍に捕まり城外で磔になった
鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)。
そんな強右衛門ですが、
お屋敷跡やお墓が
行田にあるとの噂(?)を聞き
早速行ってきました。
(本当に「ぷらっと」行ったので
カメラなし)
まずは
「お屋敷跡」へ。
「観光物産館ぶらっと♪ぎょうだ」の
隣のビルです。
ここ、本当にわかりにくい。
数分歩き回ってやっと発見。
鳥居強右衛門の子孫は
奥平松平家に代々仕えましたが、
奥平松平家は、
忍藩最後の藩主となり
明治維新を忍(現行田市)で迎えたため、
鳥居強右衛門の子孫の屋敷跡が
行田市に残されているんです!!
強右衛門の子孫は、
高名となった
強右衛門の通称を代々受け継ぎましたが、
2代目・鳥居信商は、
関ヶ原の戦いに従軍、
京都で
安国寺恵瓊を捕縛する大功を上げます!
(石碑裏面:
「天正三年(一五七五年)七月十六日
三河長篠城救援の軍使として大任を果たし磔死した
鳥居強右衛門の十二代商近は
松平藩家老五百石としてここを忍の居宅とした。
十三代商次が維新の官軍との交渉に家名をあげた。
城西桃林寺に六基の墓石あり」)
13代目・
鳥居強右衛門商次さん。
忍藩が新政府に恭順を示した際に、
藩を代表してたった一人で署名するという
たいへん重い役割を果たしたようです。
「(忍藩は)速やかに帰順の旨を告げ、
糧米三千俵と表銃隊、撤兵隊の二小隊を出すこと、
二隊の兵は長州に属し板橋駅に至る事を約し、
話はまことにすらすらと進んだ。
家老五名が誓書に署名して差出す。
これを見た楢崎、署名は一人でよい。
他日若し藩論相違した時、
切腹するのであると、
この時少し難色が見えたが、
直ちに鳥居強右衛門進み出て署名無事に終った。
これを聞き伝え
鳥居氏は祖先の名を辱しめずと称賛したのである。
誓書:『御応接の上は、以来賊徒領内へ立入らせ申す間敷(まじく)候。
依(よっ)て一札此(くだん)の如し (原候文) 三月十一日 鳥居強右衞門』
誓書は誠に簡潔であるが、
武士に二言なしの固い決意が文外に滲み出ている。
一命をかけたもの、否、一藩の運命を掛けているのである。」
初代・鳥居強右衛門同様の覚悟が伝わる
すばらしいエピソードですね。
お次は
奥平家松平家の菩提寺・4ヶ寺
桃林寺(城西)、天祥寺(埼玉)、大蔵寺(駒形)、龍源寺(廃寺)の
のうち、
「桃林寺」へと向かいます。
「桃林寺」には、
鳥居強右衛門一族のお墓があります。
家紋の鳥居紋。
強右衛門さん。
こちらの描かれ方のほうが
断然、断然、魅力的!!!!!!
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神社仏閣 | 日記
Posted at
2023/06/18 17:08:46