縄文文化の水準の高さを証明する貴重な遺跡「寺野東遺跡」(国指定史跡)に行ってきました。4,000年前にタイムスリップしたような不思議な感覚がまだ残っています。まずは発掘された貴重な遺物の数々や模型・映像などを通して、遺跡についてやさしく学ぶことができるガイダンス施設でお勉強。その後、施設を出るといきなり、4,000年前の実際の「木組遺構」にご対面!!!4,000年前の縄文人は、すでに木材を加工して「板材」を作る技術を持っていました!これ、決して大げさではなく、この「木組遺構」はずーっと見ていられます。飽きない。このあと実際に「水場遺構」を見に行きますがこの遺跡を見に来たメインの目的はまさに、そこ。「寺野東遺跡」は旧石器時代から平安時代までのムラや墓地の遺跡。約32,000年前から1,200年前の暮らしの遺構が残っている...。気が遠くなる、歴史の流れ。いかに暮らしやすい場所であったかがわかります。(湧水の存在が大きい、かな)出土した種や花粉をもとに縄文の森が復元されています。ワクワクが止まらない。お、「水場遺構」だ。後期初頭(4,000年前)になると、ムラの規模は小さくなり、やや低いところに営まれるようになります。このころに水場遺構がつくられます。木の実のアクぬきを目的とした水さらしの施設が見つかったことにより、後期には谷の水を積極的に利用し始めたことがわかります。この平場を4,000年前の人々が利用していたのか―。飲み水を汲んだり、木の実をさらしたり...。上から土砂が流れ込まないように溝が掘ってあります。ここもずっといて飽きない。機能的な場所には「美」も備わっているものです。後期前半から後半(3,800年~3,000年前)になると、村は谷の東西に営まれます。東側には、関東地方では初めて確認された巨大な環状盛土遺構がつくられます。これは、後期前半から晩期前半までの約1,000年間つくり続けられたもの。盛土に使われた量は実に、大型トラック1,500台分!!南北直径約165mの巨大なドーナツのような形に盛られた遺構。盛土に使われた土は内側を削った土で、最も高いところで約2mの高さ。盛土は現在、4つの部分が残っていて、4つとも真っ赤な焼土層と盛り土が交互に層になっています。これは、多年にわたって火を焚く行事が繰り返し行われた結果形成されたものと考えられます。遺物として、土製の耳飾りや土偶など非日常的遺物が多いことと併せて考えると、縄文時代の呪術的祭祀の場であったと推測されます。谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけてつくられたもの。この遺跡内でなんと、14基も発見されています!縄文時代の寺野東遺跡には、幅10メートルから15メートルの小川が流れていました。はじまりは環状盛土遺構の北西部にある湧水点で、水場遺構へと続いていました。木組遺構は、この水を利用するためにつくられたものです。木組遺構には、正方形の木枠を中心にして、まわりに木や小石を敷き並べたものや長方形の木枠を川底につくり、この中にしきりを設けたものなど、いくつかの形があります。これらの木組遺構は、環状盛土遺構の盛土ブロックがとぎれる2ヶ所のくぼみの近くに集中してつくられています。木組の90パーセントはクリの木が使われています。木組遺構の内側や周りからは、トチの実などの植物の種や皮がたくさん見つかっています。このことから木組遺構は、木の実のアクを抜くための水さらしの施設であったと考えられます。縄文時代の小川から、水を利用した施設がこれほどまとまって発見された例は、全国でも寺野東遺跡だけ!!ここで見つかった木組遺構は、縄文時代の水利用の方法や当時の食生活を知るための貴重な資料。「石敷台状遺構」。環状盛土遺構の内側の中心から少し北に寄ったところに、長軸22メートル、短軸17メートルの楕円形の高まりがあります。この高まりには石を敷いた部分があるので、石敷台状遺構と呼んでいます。石敷台状遺構の周りは、盛土をつくるために削られましたが、ここだけ意図的に残されました。その結果、現在のような高まりになったと考えられます。石敷に使われた河原石の大きさは、径10cm~20cmくらい。石敷は全面でなく、いくつかの部分に集中して敷かれたようです。この遺跡からの遺物は少なく、縄文時代後期から晩期の土器片と石剣、土偶が数点見つかっているだけです。この遺構がどのような目的でつくられたのか、よくわかっていません。しかし、長い間つくられ続けたことや石が敷かれていたことなどから、環状盛土遺構の中でも特に重要な場所であったと考えられます。今度は快晴の下でこの遺跡を見てみたい...。