「のぼうの城」の成田長親、織田信長の息子・信雄の居城でもあった「烏山城」を攻めます。その前に、すぐそばの「寿亀山神社」にお参り。こちらの神社は烏山城主・大久保常春公を祀ったもので、8代将軍吉宗が寄贈したといわれる衣冠束帯姿の「大久保佐渡守常春公」座像は今でも「寿亀山神社」の御神体として祀られています。さ。「烏山城」に登城しましょう。「烏山城」は旧烏山町の中心から北西に位置する八高山に築かれた山城で、山の形が牛の寝姿に似ているので「臥牛城」とも呼ばれています。那須与一末裔の兄・那須資之と弟・沢村五郎資重の不仲に端を発し、資重が下境の稲積城に移った後、応永25(1418)年に烏山城を築城しました。以後、下那須氏の本拠となり永正13(1516)年の上下那須氏統一から天正18(1590)年の那須氏改易まで那須宗家の居城でした。以後、織田(信雄)、成田(長親:城主は甲斐姫の父氏長)、松下、堀(秀正の子)、板倉(老中の一族)、那須(復帰)、永井、幕府代官、稲垣氏と短期間に交代しました。「車橋」。初めて知りました!この山城は堀切も鋭く、深くなかなか攻められそうにありません。(実際に、佐竹軍を何度も追い返しています)享保10(1725)年に大久保(彦左衛門の兄忠為の子孫)氏が入封したあとは明治2(1869)年の版籍奉還まで8代140余年の間城主となりました。城域は東西約370m、南北約510m、面積約88haに及ぶ城で五城三郭と呼ばれる主要部分で構成されていました。さて。前方に一番の見どころが出てきました!近世の東国の山城には珍しい「石垣」。本丸に入る正門近くにありちゃんと「見せる」ことも意識した配置になっています。現在、城跡は樹木に覆われていますが、空堀や土塁、石垣などの遺構は現存しており、市役所烏山庁舎北側から毘沙門山・城山に至る約1時間程度の遊歩道がありますので、城跡を散策することもできます。(......続く)