
柱の陰に1体隠れてしまっていますが、6体のお地蔵様が並んでいます。
こちらは、浜松市北区細江(ほそえ)町気賀(きが)の老ヶ谷(おいがや)地区にある交差点です。
Google MAPのストリートビューでは
ここ。
ここは県道265号線から1本奥に入った道路で、今では県道265号線が姫街道と呼ばれていますが、江戸時代からの由緒正しい姫街道はこちらの道になります。
ここは朝の通勤路でほぼ毎日通過して20年+α、たまに自転車でも通過しています。

交差点名にもなっていますが「六地蔵」お地蔵様が6体あるので、その名のとおりの場所名です。

全景はこんな具合。

昔話の笠地蔵も6体だったかな?ということもあり、なんとなくほのぼのとした場所と思っていたのですが、先日何気に通過時に脇にあった白看板をみてぎょっとしました😨

え!ここってその昔は刑場だったの😨

裏にあるこちらの竹藪が刑場だったとは知らなかった。

上空から見ると中央の竹藪部分にあたります。
ちなみに新旧地図でこの場所を表示すると...

クリックすると拡大しますが、ちょっと分かりにくいか。
左の明治25年発行の地図で赤丸の付いた場所、右の現在の国土地理院地図で黒丸の付いた場所がこの場所になります。

明治25年には今の県道261号はすでに車道になっているのですね。
ちなみに地図の左上に「中川刑部(なかがわおさかべ)」と地名が入っていますが、今でもこの辺りは中川と呼ばれていますが、刑部の名前は消えています。
なんとなく「刑部」の地名とこの「刑場」、さらに地図には入っていないですが、左上延長部分には「気賀関所」があるので、全部を繋げると「ふむ🤔」と思わなくもないですが、関係は薄いような...

こちらはGoogle MAPで「中川刑部」の文字のあった場所の
地図。
刑部の地名は元々ここに「刑部城」があったことに由来します。
刑部城は今川義元の家臣である新田美作入道の居城で、三方を都田川に囲まれた、姫街道の要衝として今川方が対徳川のために都田川の河口左岸に築城した城になります。
新田美作なのに何故「刑部」?という疑問は残りますが、少なくとも江戸時代前からあった城と地名で、気賀関所とは関係が無いような。
ちなみにこの刑部城は、1568年(永禄11年)に近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時ら井伊谷三人衆の案内により侵攻した徳川軍に攻められ落城し、その後は菅沼氏が城主として入城しています。
刑部城跡からこの刑場跡まで直線距離で約1.6kmあります。
刑部と刑場...この関係はあるの...かなぁ🤔
いずれにしても普段何気なく通っていた場所が結構物騒な場所であることに驚きました。

これは六地蔵裏に置かれていた鬼瓦、一世代前の六地蔵を守っていた瓦屋根の鬼瓦なのかな。
Posted at 2022/12/17 19:34:08 | |
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