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DORYのブログ一覧

2009年09月28日 イイね!

ロータリー物語

ロータリー物語昭和51年排ガス規制により国産車が次々と牙を抜かれていく中、当時のカタログデータでゼロヨン15.9秒 最高速195kmだったコスモAPは衝撃的でした。またTV CMも「瞬間 コスモの匂い」というコピーで大人の世界を演出していました。当時中1だったボクは真っ赤なコスモに憧れ、親父に頼んで試乗へと出かけました。試乗車はモスグリーンのLimited。残念ながらAT。当時はMTに比べATの動力性能がかなり劣っていましたので、あまり速さを感じませんでした。





それから9年の月日が流れ、当時住んでいたアメリカで友人のひとりが一時帰国することとなり、その間ボクが彼の愛車であるコスモを預かることになりました。70年代からマツダはRX3@サバンナなどが輸出されており、コスモも少数ではありましたが現地に走ってました。



そのコスモは13B搭載の5MT!ボクにとってロータリー初体験でしたから、7000rpmくらいまでモーターのように綺麗に回るエンジンには感動しましたね。ただその一方では低中速トルクに物足りなさを感じ、これが当時のアメリカ人に受け入れられなかった一因だったかもしれません。

またまた時が流れ、2003年にロードスターからの買換え候補に挙がったのがZ33、RX8、そしてFD3SことRX7でした。Z33は初期モデルだったので鈍重な印象で、RX8はもうちょっとパワーがあれば・・・でありました。

ディーラーで何気に「限定車のSpiritRはまだ残ってますか?」と尋ねると、「一台だけあります!」とのこと。そしてかなり思い切った金額を提示され即日契約しちゃいました。

SpiritRは、日産がR34GTRニュルを限定発売して即完売したのを見て、マツダが「うーむ、ならば我が社もRX7の最終限定モデルをかますかー!」と2匹目のドジョウを狙って出したものの、仕様としては即完売だった6型RZに近かったのですが、意外に売れ残ってしまったモデルであります。。。

RX7といえば昭和53年に記憶が遡ります。既にスーパーカーブームのピークは過ぎていましたが、トヨタ2000GT以来の国産車でリトラクタブルヘッドライトを装備したクルマでしたから、当時中学生だったボクには素晴らしくカッコ良く映り憧れの存在でした。既にホリデーオート誌を爆読していましたから、免許を取ったらSA22Cを買って、RE雨宮で13Bペリ仕様にするのだー!と妄想していました。



しかし実際に免許を取ったらRX7なんて高嶺の花涙 当時の為替ではアメリカで新車価格が約400万円!

2代目RX7 FC3Sも憧れましたがご縁が無く、91年の東京モーターショーでFD3Sを見た時はキター!と思い、翌92年の発表と同時にディーラーで試乗して「コレ欲しいなぁ~」と思いましたが、ちょうど富士フレッシュマンレースを無理してやっていた時期でしたので、ナンバー付のクルマにお金をかけれなかったのです涙

それから10年以上月日が流れてからのご対面でしたので凄く嬉しかったです。ナラシはロータリー専門ショップによればレシプロ以上に丁寧にやらなくてはならないと聞き、3000km頑張ってやりました。

ナラシが終わり、早速ドリフトしてみましたが、ロードスターから違和感無くスンナリ乗れちゃいました。でもそれは定常円旋回や8の字のレベルであって、コースでのドリフトではもちろん違いました。当時直ドリへ挑み始めたのですが、振り返し3発でいかなければならないところをどうしても怖くて5発でしかいけませんでした・・・。



その後も、筑波2000や鈴鹿サーキット等を限りなくノーマルに近い仕様(リミッターカットとブレーキパッド交換のみ)で走っていました。当時友人が'01 996GT3に乗っていてバトルしたのですが、4速まではついていけましたので、チューニングしたら楽しいだろうなぁ~と妄想しました。

思い切って改造すべきかそれとも・・・・と悶々とした日々を過ごしていたところ、購入金額とほとんど変わらない金額で売ってほしいとのオファーがありました。

自分なりに楽しめる仕様にするのにはある程度の改造費が必要、でもロードスターでは1年間で大損してしまったのでそこまではかけるのには躊躇してしまう、それだったらボクよりも真のロータリーファンに大事に乗ってもらったほうが良いのではないか・・・という結論に達し、実質3ヶ月6,000kmで手放してしまいました・・・。なんとも軟弱な話であります。。。

2012年に新開発のロータリー16Xを搭載する新世代RX7が登場するとの話を聞きますが、スポーツカー好きの気持ちをよくわかっているメーカーですから楽しみですわーい(嬉しい顔)
Posted at 2009/09/28 23:18:38 | コメント(1) | かつてのクルマ | 日記
2009年09月25日 イイね!

ロードスター物語

ロードスター物語2002年2月、ドラテク修行を基礎からやり直そうと決心し、大井さんに相談すると、シルビアかユーノスロードスターを買って修行せよ!と言われました。でも当時のボクは「もうすぐ40なのにシルビアみたいな青少年向けクルマなんか今更乗れないよなぁ・・・・」と思っていました(それが今ではすっかりシルビア命なのですが・・・冷や汗)。

そこでユーノスロードスターの専門誌を買ってきました。初代ロードスターは1600のNA6Cと1800のNA8Cに分かれ、さらにNA8Cにはシリーズ1とシリーズ2があり、それぞれファイナルが4.1と4.3となり、サーキット走行するなら4.3の方が楽しいらしい・・・でもシリーズ2はROMチューンが難しい・・・等々の知識を一日18時間くらい猛勉強しました。

早速雑誌で見つけたロードスター専門ショップへ見に行くことにしました。幸いロードスターマニアの友人がひとりいましたので、彼からその店の評判を聞き、まぁまぁ良さそうだったので訪ねてみることに。でも心細いのでお友達にお付き合い頂きました。

雨ざらしの展示場で出会ったのが'94 NA8C RS-Limitedという限定モデルでした。走行8万キロを刻み、な~んかお疲れの雰囲気を醸し出しているものの、ショップの青年も敬語がぎこちないものの一生懸命であり、なんとなくクルマがボクを呼んでいるような気がして、試乗もせず購入しちゃいました冷や汗2

店頭価格が49万円。それに車検や登録諸費用、さらにお店を信頼して必要とされる整備を御願いしました。そんなわけでコミコミ90万円也を支払いました。その後、ワンオフロールケージ溶接、車高調、全ブッシュ交換、LSD、ミッション載せ換え、エンジン載せ換え等々200万円以上つぎこみました。そして一年後に45万円で売却してしまいました。金銭的な面からすれば大馬鹿そのものなのですが、ロードスターと過ごした1年間は本当に内容が濃いものでした。

購入してすぐに大井さんの筑波2000特訓を受講したのですが、バックストレートで「北酒場」をフルコーラス歌えるのでは?と思えるくらい長~く感じました。遅い!でも楽しい!が第一印象でしたでしょうかわーい(嬉しい顔)

例えば360Modenaで筑波2000の80Rは恐怖そのもので全開のまま抜けることは出来なかったのですが、ロードスターの場合ベタ踏みでいけました。つまり踏めないストレスを感じることなく、常に全開でいける爽快感!だからといってタイムを出す為には、同じ全開でもベストなラインを通らなければなりませんし、非力なパワーを最大限にいかすような走りを常に心がけなければなりません。これが結構むずかしく奥深いところでした。

ハンドリングは巷でよく言われる通り、本当に素直ですね!テールが流れても360Modenaの10倍くらいゆったりとした動きです。そんなわけでドリフトもこのクルマで徹底的に基礎からやり直しました。パワーが無いので、ドリフトをいかに持続させるかがこれまた奥深い世界でして、パワーバンドをキープしつつライン取りも重要だったりもします。これが最初からドリフト仕様のシルビアあたりに乗っていたらこうした苦労はなかったかもしれませんが、ロードスターでのドリフト練習は決して無駄にはならなかったと思いますし、ボクにとって大きな財産となりました。

サーキットも仙台ハイランド、エビス東、モテギ、筑波1000、筑波2000、鈴鹿などへ出陣しました(さすがに仙台と鈴鹿日帰り遠征は痺れましたが・・・)。大井さんとの師弟対決ではお互いに勝利する為なら手段を選ばず!というわけでウォッシャー攻撃合戦をやったり、幅寄せしたり、楽しかった思い出が沢山ありますわーい(嬉しい顔)

ロードスターのパーツは豊富にあり、それこそ1/1のプラモデル感覚で楽しめてしまいます。また、一時期は新車のコンディションまでレストアしたいなぁとさえ思いました。でもそれは自分自身がどのレベルで完成!と定めない限り、終着駅なき世界へと突入してしまうことも悟りました。

そこまで気に入っていたのにどうして手放してしまったかというと、ある時「このままこのクルマに乗ってこの感覚に慣れてしまったら、将来またハイパワー車に乗った時、あまりの違いに戸惑うのではないか?」と思ったことも一因です。大井さんに相談すると「そんなことはないよ!」と言われましたが、魔がさして手放してしまいました。

今でも残しておけば良かったなぁと思う一台でありますわーい(嬉しい顔)
Posted at 2009/09/25 13:43:39 | コメント(3) | かつてのクルマ | 日記
2009年09月10日 イイね!

HONDA物語

昔、アメリカで生活していた時に乗った2台のHONDA車についてお話させて頂きます。

・・・82年6月、渡米しました。しかし、辿り着いた先はド田舎。クルマがないと生活できないのです。親に電話し泣きつくと「バスに乗れ!」と突き放されましたパンチ

それでも何度か訴え続けているうちに「安い中古なら・・・」と折れてきました。

ところが中古車屋へ見に行くのも大変で、なんとか知人に頼み込んで乗せていってもらいました。だから色々見るわけにも行かず、さびれた店の在庫車から時間を掛けずに選ぶしかなかったのです。

そして購入を決意したのが、'78 Honda Accord HB 1600LX-5でした。ジェミニの事故以来すっかりFR恐怖症になってしまったので、今度はFFにしようという考えもあったわけです



4年落ちで既に6万マイル(約9.6万キロ)走行したクルマでしたが、限られた予算の範囲内で尚且つ信頼性を考えるとこれしかなかったのです。

カーステレオが壊れていたので、しかたなく近所のK-MARTで安いラジカセを買ってきて、リアシートに載せました。KIIS FM@102.7がお気に入りでありました。

パワステが小指で回るほど異様に軽く、1速がかなりローギアードでそこそこの出足を見せるのですがその直後に失速してしまい歯がゆい思いをしました。最高速アタックもLas Vegasへ向かう15号線の長い直線で挑んだこともありますが90マイル+(約144km+)が限界でした。

近所に2~3速全開で気持ちよく抜けられる広いコーナーがありまして、そこでタックインの練習をしていました。確かタイヤが155SR13あたりのローグリップタイヤでしたので挙動が大人しく、リハビリにはもってこいでした。

またスピンターンの練習もこのクルマで始めました。深夜、大学の駐車場でよくやりまして、時々キャンパスポリスに捕まりエライ剣幕で怒られたものです。

当時のクルマとしてはパッケージングが良く、室内も広くて使い勝手が良く、友人達を乗せ色々なところへ出かけました。結局9ヶ月で約1.5万マイル(約2.4万キロ)ほど乗りました。

このクルマのお陰でFR恐怖症を消し去ることが出来たわけですわーい(嬉しい顔)

・・・2台目のHONDA車を購入したのはそれから5年半後のことでした。



それまでCamaroに乗っていたのですがトラブルが頻発し、また半年後にはアメリカ一周する計画もあったので、信頼性の高い日本車でなるべく安く、乗って楽しく、燃費が良く、荷物がちゃんと入るクルマに乗り換えることにしました。

たまたまLAのディーラーでCRXを試乗したら面白かったのと、Camaroの下取りが好条件だったので即決しちゃいました。

まだV-TECが出る前のモデルでしたが高回転まで綺麗に回るエンジンは、以前乗っていた初代アコードとは月とスッポンであり感動しました。ただ、ボディ剛性不足が顕著であり、ちょっとした段差でもギシギシと音がするのには気が滅入りました・・・もうやだ~(悲しい顔)

一度、峠でブレーキングドリフト気味に進入したら、あまりにも唐突にリアが出てスピンしちゃいました冷や汗2 当時はその瞬間にアクセルを入れる反応が出来なかったのです。

88年6月。アメリカ一周旅行へ出発しました。事前にAAAへ出向きルートマップを作成してもらい万全を期しました。約3週間、ノントラブルで予定通りに走破しました!ひたすらフリーウェイを走り続ける日々でしたが、この時ばかりはクルーズコントロールがあればなぁ・・・と思いましたね。

トラブルといえば、アメリカ国内だから・・・というわけでパスポートを持っていかず、アメリカの運転免許があればIDとしては充分だと信じていたのです。しかし、テキサスでフリーウェイが一箇所だけメキシコとの国境を超えるところがあり、それに気づかなくてアメリカ側の検問所で捕まりました 係官に「大学に連絡してくれれば身元確認できるから!」と言ったら、「俺に指図するな!あまりゴチャゴチャ言うなら牢屋に入ってもらうぞ!」と脅されました 2時間くらい拘束され、ようやく確認できたらしく解放されました。今となっては笑い話ですが・・・冷や汗

あのテールが突発的に流れる特性を当時は持て余してしまいましたが、修行を積んできた今ならちょっと乗ってみたいような気もします。

・・・こんな過去があるものですから、来年2月発売予定のCR-Zにはちょっと興味ありですわーい(嬉しい顔)
Posted at 2009/09/10 12:51:32 | コメント(2) | かつてのクルマ | 日記
2009年09月03日 イイね!

一号車物語

一号車物語10年ほど前に書いたコラムなのですが、久しぶりに読んだら、昔からドリフトに憧れていたのだなぁ~と思わず苦笑したと同時に、常に初心を忘れるべからず・・・の自戒をこめまして掲載させて頂きますわーい(嬉しい顔)

題して「一号車物語」です。

1982年1月、私は18歳になる2週間前から、教習所へ通った。当時一世を風靡したセリカXX2800GTやアルピナへの憧れはあったものの、予算は諸費用込みで70万円という現実があった。カローラレビン(TE71)は遠い存在であったし、後期型の角目のスターレット(KP61)でさえも、中古価格は80万円前後であった。

途方にくれていた時、たまたま家の近くのクルマ屋に真っ赤な1978年式のジェミニ1800LSクーペが置いてあった。オールペンしたばかりであり、イントラという新品アルミホイールがついていた。お値段は諸費用別で70万円だった。なんとか込みで70万円でおさまるよう交渉するが、相手も譲らない。しかたなく家に戻るが、どうしても欲しい。そこで、親父に頼んで一緒に来てもらった。すると、私一人の時は、相手にされなかったのに、親父には諸費用込みで70万円にすんなり引いてくれた。ツッパッていても、まだまだ親にはかなわないと、素直にその時は思った。

■納車日
喜んで引き取りに行き、近所をガソリンがなくなるまで走った。帰宅してからすぐ洗車し、それでも興奮状態は収まらない。結局、その晩はクルマの中で寝てしまった。

■納車2日目
伊豆まで一人でドライブに出かけた。運転はギクシャクしているものの、気分は最高だった。熱海あたりになると、音楽が聴きたくなった。しかしAMラジオしかない。あいにく平日の午前中ということもあり、奥様向け番組しかやっていない。それでもいいか、と聴いていたら、ラジオ人生相談の番組になった。相談の主は、夫の浮気に悩む奥さんだった。私は奥さんの悩みを聞きながら、重~い気分で伊豆半島を走ったのであった・・・。

これではいかん!と思った。女の子を乗せるには、音が大切であるからだ。カセットを付けねば!
その当時、私は川崎の旧専売公社で、食塩検査官のバイトをしていた。大量に流れてくる食塩に異物が入っていないか、大きな櫛でチェックする任務であった。かなり単調でいい加減な仕事であったが、夜勤ということもあり、時給750円もらえた。

■納車3日目
幸運にもバイトの給料日であった。早速、前から決めていたクラリオン・シティコネクション(当時TVCMでエマニエル坊やが出演していた)のカセットデッキを取り付けた。FMがないAM+カセットという変な組み合わせになってしまったが、それでも大満足だった。当時はとても大人の世界に憧れていたので、ボズ・スキャッグスのミドルマンというアルバムをよく聴いた。

■納車4~6日目
友人に見せびらかしに行った。誰しもが誉めてくれるのが嬉しくて嬉しくてしかたなかった。渋谷センター街近くにあった「NOW」という洋服屋のステッカーをリアウインドーに貼ってみた。

■納車7日目
彼女を乗せ、湘南へ海を見に行った。車内にはユーミンが流れる青春ドライブである。しかし、次第に彼女が不機嫌になっていくのに気づいた。理由を聞くと、ダッシュボードにこの日のために飾ったアヒルのぬいぐるみが気に入らないと言う。「誰からもらったのよ?」と問い詰められた。「これは家にあったもので、お袋がなんかの景品でもらったものだ」と説明するが信じてもらえなかった。

彼女との初ドライブは破局へとつながってしまった涙

■納車8日目
私は硬派へ戻ることにした。もう2度と恋はしないと…。ドリフトの練習を開始することにした。しかし、全然滑らない。速度が足りないからか?とひたすら交差点をオーバースピードで突っ込むが、それでも滑らない。

■納車9日目
最高速派へ転向することにした。当時の初代ソアラのTVCMコピー「未体験ゾ~ン!」と叫びながらアクセルを踏むが、どう頑張っても160km止まりであった。RX7にビューンとぶち抜かれてしまった冷や汗2

■納車10日目
洗車派へ転向することにした。一生懸命ワックスかけをして悦に入っていたら、オールペンがとても粗いものであることに気づいた・・・。

■納車11日目
やはりドリフト命として生きていくことにした。夜からその日は雨が降っていた。コーナーに思いっきり突っ込むと面白いように、テールが流れた、必死にカウンターを当てるが、戻しが遅いため、タコ踊りになってしまう。幾度となく繰り返すと、決まった!と思えるドリフト(今にして思えばテールスライド)ができるようになってきた。嬉しくて嬉しくて、「明日は友人に自慢してやろう!」などと思った。最後の仕上げにもう一段階、交差点への進入速度を上げた、その瞬間思っていたよりもテールがスパッと流れ、中央分離帯に突き刺さった。私は、頭と胸をそれぞれ、フロントガラスとステアリングに強打した。ハッと気がついて、セルを回すと不幸中の幸いエンジンはかかった。しかし、直進するのには、最高速15kmまででないと、走らなかった。私はよたよたと走りながら、家までなんとか帰った。お袋に「事故ちゃったよ」と言うと、「人を轢いたの?」と一瞬にしてお袋は青ざめてしまった。その時のお袋の表情が、いまでも忘れられない。親父に「もうクルマには2度と乗るな!」とこっぴどく叱られた。それまでの18年間の人生の中で、一番しょげた晩であった・・・。

■納車12日目
前日のショックから、とてもではないが、立ち直れない。でもクルマを修理に持っていくことにした。時速15kmで走っていると、後ろの車には、ビービー鳴らされた。怒鳴り返す力も無く、いすゞのサービス工場へ持っていった。フロントマンがニヤニヤ笑いながら、クルマを見たのには腹が立ったが、ここで怒って修理代が高くなってはいけないと思い、おとなしくしていた。修理代は約35万円だった。車両保険などに入っているわけもなく、親に泣きつくしかなかった・・・。

■修理後
心身ともに立ち直り、クルマを受け取り、再スタートを切ることにした。しかし、100km以上出すと、バイブレーションがひどい。いすゞに問い合わせると、やるだけのことはやったとの回答だった。それでも約1ヶ月乗った。やはり、どうしようもなかった。

販売店に持っていくと、35万円なら引き取ると言われた。修理代は回収できるので、手放すことにした…。

今でも、時々このクルマのことが気になる。今ごろどうしているのだろうか?今回こんな古いお話をしたのは、どうしても一言「かわいそうなことをして申し訳なかった」と私の記念すべき第1号車のジェミニに謝り、けじめをつけておきたかったのだ。。。
Posted at 2009/09/03 12:25:05 | コメント(3) | かつてのクルマ | 日記
2009年08月28日 イイね!

GTR物語

ボクにとってGTRといえばまずハコスカRことKPGC10。

'72 実家のクルマとしてハコスカも候補に挙がり、カタログの中で輝いていたのがレース仕様のGTR。GTやGTXではなくどうせならGTRにすればいいのになぁ・・・と子供ながら(当時小3)思っていました。

それから時が流れ、初期モデルを避け、納期が早まってきた頃を見計らってR32GTRを注文し、'90 10月に納車されました。



色はCG誌のテストリポート車と同じ濃紺。オプションとして前後タワーバー、NISMOマフラー、NISMO260kmメーターを装着しました。当時はディーラーによってNISMOパーツ取り扱いの見解が異なったので、細かいことをゴチャゴチャ言わないディーラーを選びました。。

当時はよく箱根を走っていましたので嬉々としてGTRを持ち込んだのですが、長尾峠で簡単にブレーキがフェードしてしまい唖然としました。。。

FISCOへ出陣する際にはブレーキパッドをWINMAXに交換し、リミッターをHKSでカットしていきました。確か11月だったと思いますが、油温がすぐに130度を超え、ブレーキも7周くらいでフェードしてしまいました。でもストレートでメーター読み240kmオーバーでしたし、確か1分56~57秒楽々出たと思います。
ちょうどその頃、FISCOで出会った走行会仲間がレースへ転向していくのに影響され、わずか3ヶ月7,000kmでR32GTR手放し、富士フレッシュマンレースに挑戦することを決意しました。それが大きな勘違いであったことは後に気づくわけなのですが。。。

2台目のGTRはR34GTR V-SpecⅡ Nurでした。2002年1月に新車で購入しようかと死ぬほど悩んだのですが、結局その時は見送り、2007年4月に8000km走行した中古車を新車よりも高い値段で買いました。R35GTRがもうすぐ発表されることはわかっていましたが、名機RB26DETTをもう一度味わっておきたくて割高なのを承知で買ってしまいました。



しかし実際に乗ってみると、チューニングされたS15と比べ全てが鈍重。もちろんチューニングすれば激変することもわかってはいたのですが、1万円札がフルブーストで飛んでいく世界。。。

さらに購入したお店から「ノーマルのままで走行1万キロ以内なら高値安定ですよ!」と囁かれてしまい、結局チューニングの道へも進めず、だからといってノーマルのままでは不満だらけ・・・というわけで結局購入後乗った回数は3回、走行距離300kmにして手放してしまいました。。。

'07 11月、銀座の日産本社ショールームにR35GTRが全色展示されていることを知り、5日間連続で通い、あれこれいじくりまわしました。ショールームのオネーサマ達からは「また来たか・・・」と呆れられていたかもしれませんが、そんなことはお構いなしに真剣モードでした。

当時はまだリミッター解除が不可能では?と言われていましたので、翌年1月のオートサロンでは各ショップを回り情報収集。ただ保証の問題もありましたし、純正パーツ価格、メンテ代、そうした具体的な話を何度かディーラーへ聞きに行っても玉虫色の態度、代わりにGTR専門店に問い合わせてもなんとなく頼りない雰囲気・・・。クルマに限らず買い物をする時はスパッと気持ちよく買いたいのに、どこもグニャグニャしているので段々面倒くさくなってやめちゃいました。

’09モデルが出た時は再び煩悩に包まれました。その1ヶ月前の昨年11月。知人と一緒に某チューニングショップで600馬力仕様のR35GTRに乗せて頂きました。この時は本当に感動しました。そこでよーし!'09モデルを買うぞ!とディーラーへ出かけたものの、変な敬語でしゃべる営業氏が出てきて一気に萎えてしまいました・・・。

先日純正パーツ価格等の見直しや、NISMOでリミッターカットしたECUのレンタルも始まったようなのですが、な~んかR35GTRとはご縁が無いのであります。。。

ボクは「GTR Magazine」という雑誌が大好きでして、心底GTRが好きで好きでたまらないといった雰囲気の読者の方を拝見していると、とても熱いものを感じてしまうのです。

でも実際にディーラーへ出かけると、その熱い気持ちが一気に冷めてしまいます。今となってはGTRなんて売れないのでしょうが、あのやる気の無さはいかがなものかと。。。

ボクは日産が大好きです。優等生のトヨタと異なり、不器用ながらクルマ好きの気持ちがわかっているメーカーとの印象がかつてはありました。でもR35GTRに関しては、何故か冷たさを感じてしまうのです。

国交省という存在がある限り、この国において輸入車と同じ待遇を求めるのは無理なのかもしれませんが、もう少しクルマ好きの気持ちをわかってほしいものです。

サッカーのワールドカップやWBCで日本を夢中で応援した時と同じような気持ちがGTRに対してあります。

もしも熱い気持ちを維持したままハンコを押せるのであれば、またGTRを買うかもしれませんわーい(嬉しい顔)

Posted at 2009/08/28 02:10:00 | コメント(0) | かつてのクルマ | 日記

プロフィール

国産・輸入車を問わず運転して楽しいクルマが好きです 2001年から大井貴之選手にそれまでの自己流の滅茶苦茶なドライビングを修正して頂こうと基礎から習い始...
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