縁切寺と言えば、
そう、もちろん「さだまさし」
...じゃなく
鎌倉の東慶寺しか浮かびませんが、
実は、群馬にもあったのです!
それも、徳川家とすごくゆかりがある形で。
「世良田東照宮」を調べているうちに
太田市徳川町にある
『徳川満徳寺』の存在を知り、
「これはぜひ行かねば」と
思った次第です。
まずは「縁切寺満徳寺資料館」からスタート。
満徳寺は、江戸時代に鎌倉・東慶寺と並んで
女性を救済するという縁切りの特権を認められた尼寺です。
満徳寺の由緒書等によれば、
鎌倉時代、徳川氏の祖・世良田(徳川)義季(よしすえ)を開基とし、
義季の娘・浄念比丘尼(じょうねんびくに)を開山として
創建されたと伝えられます。
代々の住職は新田氏一族の子女が住持となりました。
新田氏の衰退とともに荒廃していきましたが、
天正19年(1591)、徳川家康より徳川郷内に朱印地(しゅいんち)100石を拝領し、
衰退していた寺を復興させました。
大阪夏の陣(1615)の後、
2代将軍徳川秀忠の娘千姫が
豊臣家と縁を切るために入寺(実際は待女が入寺)し、
離婚後再婚した例にならい、
縁切寺法の特権が幕府に容認されたと伝えられます。
明治5年(1872)廃寺となりました。
現在、縁切寺満徳寺遺跡公園として、
本堂・門・庭園等を復元し、資料館を開設して一般公開をしています。
ふむふむ。
家康の孫娘「千姫」と「豊臣秀頼」の縁切りも
したわけですな。
実際の「離縁状」。
この資料館のなかにある
「縁切・縁結厠」が有名なようです。
海外からも取材が来たとか。
左右に別れることなく、
一か所で縁切り・縁結びが行えるのが特徴だそうです。
右の白が縁切り用、
左の黒が縁結び用です。
実際の「ナニ」を流シテハイケマセン。
縁切札・縁結札に願いをこめて、それぞれに流し、
白黒をはっきりさせて、自分の人生を一歩前進させる
という意味がこめられています。
資料館の資料をじっくり読みこみましたので
江戸時代の離婚手続きには
そーとー詳しくなりました。
いつの時代でも
人間は人間です。
外に出て、本堂・門・庭園等を
見てみましょう。
やはり、「駆け込み門」は
見ておきたいですからね。
この中に入れば「セーフ」。
境内に入る前に、旦那さんにつかまってしまえば「アウト」。
離縁(への手続き)は達成できません。
自分の体が入る必要はなく
草履でもなんでも
自分が身に着けていたものを境内に投げ入れても
お寺に入ったと見なされ
男は一切手出しができなかったそうです。
『満徳寺・復元本堂』
本堂内部。
本堂内にあった説明。
3行目が、いかしてます。(関係者は、おそらくまっさんファンでしょう...)
「寺役場」の礎石。
この一角に「お腰掛け」と呼ばれる狭いスペース
(写真右下。縁側みたいなもの)があり、
妻の親などが、駆け込み女の真意を聞きただしたり
復縁を説得するのに使われたそうです。
日が傾いて、ますます寒くなってきましたが
しばし、
この礎石たちが聞いてきた
さまざまな「人間ドラマ」に思いを馳せて
たたずんでいました......。
(注:私には、そんな願望は『一切』ございませんよ...)
満徳寺を出て、駐車場に向かう路地にて。
影の長さにビックリ。
思わず心の中で「チョーコベー」と
口ずさんでしまいました...。
<2014.3.21 追記>
どーしても「ちょこべー」のCMをもう一度見てみたくて
検索しちゃいました。
ブログ一覧 |
博物館 | 日記
Posted at
2014/03/16 18:01:12