行田市郷土博物館にて
行われた講演会、
「忍城代 松平家忠日記の世界」。
歴史を考証するうえで
「文書」と「日記」は非常に重要なものですが、
「文書」は単発的で連続性に乏しい反面、
「日記」は連続性があり、
変化がよくわかります。
例えば、
「松平家忠日記」の中で
家忠が徳川家康のことをどんな風に
呼んでいるかというと、
「家康」→「家康様」→「殿様」と
呼び方が変わっていきます。
家康といえども
松平十六家の中では、
最初は
棟梁の立場が
いつでも他の松平家に取って代わられてしまう
弱い立場だったことがわかります。
(突然呼び方が変わるのではなく、
混在している状態から
徐々に表記が固まっていく感じ。
もちろん背景には、
家康の一族の中での
地位の向上〈支配構造・組織の変化〉があります)
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はじめに
史料としての文書と日記
1. 『家忠日記』と松平家忠
・松平家忠という人物
2. 深溝(ふこうず)松平氏と徳川(松平宗家)・江戸時代
・三河松平氏の流れ
・深溝松平氏の世代
・江戸時代の深溝松平氏
3. あらためて『家忠日記』とは
4. 徳川家康年表
5. 『家忠日記』に登場する人々
な、なんと、約700人!
家康、信長、秀吉、松平一族、家忠家族、家康家臣団、三河国衆
遠江衆、戦国大名(武田、北条、今川、その他)、織田一族
これ、戦国大名終焉後の今川氏真か? と言われています。

(天正7(1579)年10月8,9日の日記に記載)
10/8 『氏真様、われわれ陣所へ御越候』
10/9 『氏真様、御ふる舞被成候(おふるまいなされそうろう)』
講演会では出てきませんでしたが、
織田信長の家臣で黒人の弥助については
甲州征伐の帰国途上に目撃し
『名は弥助、身の丈六尺二分、黒人男性、身はすみのごとく』などと
記しているため、
黒人であることの裏付けが取れ、また、弥助の身長(=約182.4cm!!)がわかります。
・日常→・日々の生活(家族・親類・松平家臣<同僚>・家康・文化人・
宗教者との交流
・年中行事(信仰・民俗・連歌・茶の湯)、
機会・季節ごとにおける「贈答ともてなし(←この時代、これがすごく重要!!)
・川狩り、鷹狩り、普請の日々(←家忠はこれ、多いです)、家康への出仕、
家康の行動(←この日記の細かなエピソード描写を参考に、「大河ドラマ」の映像が
できていたりもします)
・非日常→・軍事行動(出陣・城攻め・刈田働き)
6. 『家忠日記』の内容1
7. 『家忠日記』の内容2
・天正10(1582)年6月2日 本能寺の変
・天正14(1586)年10月18日 大政所出迎え
・天正14(1586)年10月晦日 羽柴秀吉と家康の対面
(これ以降、家忠が家康のことを述べる際は「家康様」が用いられます)
・天正16(1588)年4月21日 羽柴秀吉文書
・天正18(1590)年7月11日 小田原北条氏降伏
7. 家康から家康様・殿様へ
8. 家忠は信長と秀吉にあっているか、顔を見ているか
・信長:天正10年、y武田氏滅亡後、信長、甲斐から安土へ。
その途次の「御成」 (家忠は信長が通る道の一部の整備を行っています)
・秀吉:羽柴秀吉より伏見城普請への尽力で羽織、帷子を贈られる
家忠さん、なんと、その翌日、
太閤様よりいただいた羽織、帷子を着て、見ていただいたようです!!
そして。
この伏見城において、
家忠は
壮絶な最期を遂げるのです!!!
ううぅうぅぅぅ.................。
10. 家忠の関東移動、忍城代の日々
①深溝から忍へ
引っ越しが言い渡されてからのバタバタさ加減が日記から伝わってきますよ。
②忍での生活583日
③538日出来事
11. 上代・小見川、家忠の最期
①上代から小見川へ
②家忠の最期 ― 伏見籠城戦
12. 家忠を継いだ子たち
むすびに
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昔、コイは「1本、2本」、
フナは「1枚、2枚」と数えられていました。
右側は、日本最古の「棋譜」と言われています。
こりゃぁ、なんだぁ...。 シリーズ。
五条大橋⁇
簀巻き⁇
昔も
こんな風に遊んでいたんですねぇ。
これは、人魚です!!
以前、
鳥居元忠については
いろいろと勉強したので、
伏見で一緒に戦って
散っていったのかと思うと
なんだか切ない気持ちになりますが、
その忠義は永遠に語り継がれるでしょう。
「松平家忠日記」、
講師の先生が
2年後の出版をめざし、
最新の研究成果を取り入れ
鋭意、ご執筆中とのことです。
乞うご期待!!!
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Posted at
2018/02/18 13:11:59