
本郷台地の「キワ」には
「神田明神」
「湯島聖堂」
「湯島天神」
「根津神社」 などなど、
私の大好物が建てられていますが、
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」 といわれた
「かねやす」も
ぜひこの目で見ておきたいところです。
享保年間(1716~1736)に、
乳香散という歯磨き粉を売り出し
有名になった老舗で、
現在も洋品店として営業中。
享保15年(1730)に大火があり、
湯島や本郷一帯が燃えたため、
再興に力を注いだ町奉行の
大岡越前守は、
ここを境に
南側を耐火のために
土蔵造りや塗屋にすることを命じました。
一方で北側は
従来どおりの
板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、
「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたそうです。
「本郷薬師」。
かつての「真光寺(藤堂家の菩提寺)」の境内ですね。
このあたり、樋口一葉も
「かねやす」での買い物帰りに
散策していたようです。
(日記に記載あり)
住宅街の中に
ポツンとある
こちらの「十一面観世音菩薩(享保5年:1720年)」も
かつての「真光寺」境内にあったもの。
戦災を免れました。
(「真光寺」は世田谷区給田に移転)
「桜木神社」。
【文明年間(1469‐1487)、
太田道灌が江戸築城の折、
菅原道真の神霊を
京都北野の祠より同城内に勧請したもの。
その後、
桜の馬場の地に建立しましたが、
徳川綱吉が
同所に昌平校を設立したため現在に至る。】
(いまはご朱印がいただけないようです)
お隣の「麺屋 ねむ瑠」へ。
少々並びましたが、
並んで食べる価値ありっ!!
「金魚坂」にある
創業なんと、350年の
金魚屋さん!
「本妙寺坂」。
この坂を下りて、
上った先が「本妙寺」跡。
そうです、
明暦の大火(振袖火事)の火元となった
お寺です。
明治43年、巣鴨に移転したそうです。
んんん???
私はてっきり
大火の後に
火元の責任を取って
移転していたものと思っていました。
現在の「
本妙寺」のHPを見ていましたら
おもしろい記述がありました。
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明暦三年(1657)1月18日未刻(午後2時頃)に出火し、
折からの強風に煽られて、
江戸城本丸・二の丸をはじめ
江戸市中の6割余りを焼きつくし、
死者約十万人に達した大火が「明暦の大火」です。
そして火元となったのが本妙寺で、
原因は本妙寺の檀家の娘の供養のために
燎火に投じた振り袖が舞い上がって
本堂の屋根に飛火したことによるものとされ、
俗に「振袖火事」といわれています。
しかしこれは伝説で、
火元が本妙寺であるということに関しても不審が多く、
「本妙寺火元引き受け説」も語られています。
この大火の後、
江戸の町は市街地が整備され、
今日の東京の町並みの原型ができました。
そうした中で移転させられた寺も多くありましたが、
火元といわれた本妙寺は本郷丸山を動かず、
罰も受けずに復興し、
寛文七年(1667)には幕府から
日蓮聖人門下勝劣派の触頭に任ぜられました。
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「触頭」とは、
江戸時代、寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、
また、配下の寺院からの訴願を
奉行に伝えるのを役とした寺 のこと。
うむ。
これは、何か裏がありますな...。
いろいろ調べてみると
当時、風上(北側)には
老中(阿部忠秋)の屋敷があり
そこが火元だという説があるようです..........。
しかもこの阿部家、
大正12年の関東大震災まで
260年余にわたって
明暦の大火の供養料を
本妙寺に奉納していたというのです。
(大火後、幕府が犠牲者のために建てた「回向院」に
奉納するのではなく、です)
もっと坂道の話を書こうと思っていたのですが。
もう、気持ちは
巣鴨の本妙寺に
飛んでおります...。
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Posted at
2018/11/23 19:25:26