11/24(土)、
染井霊園のあとは
染井吉野、発祥の地をお散歩。
「専修院」。
明治43年に浅草から移転。
植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡として知られています。
3代目の三之丞は、ツツジの栽培に力を注ぎ、
染井のツツジは江戸の名所として一躍有名に。
この地を中心に染井村は園芸の里として賑わいました。
(4代目は、吉宗にチョー気に入られ、
江戸城内にも出入りしていました。
吉宗はよく、この辺の植木屋さんの見学に
来ていたようです)
「染井よしの桜の里公園」。
「染井稲荷神社」。
旧上駒込村・染井の鎮守。
ここに「染井」という井戸があったことが
染井という地名の由来です。
「西福寺(さいふくじ)」。
(江戸時代、「染井稲荷神社」の別当寺)
染井の植木屋の菩提寺として有名。
八代将軍徳川吉宗に気に入られ、
江戸城内の庭師も務めていた植木屋、
伊藤家の四代目・伊兵衛政武の墓があり、
貴重な園芸書「地錦抄(ちきんしょう)」も保管されています。
歴代将軍が植木屋さん巡りをしたときの
休憩所でもありました。
山門右手には、区内最古の六地蔵もあります。
(明暦元年=1655年)
「旧丹羽家 門と蔵」。
染井を代表する植木職人として活躍した
丹羽家の敷地に残る門と蔵を保存し、
「門と蔵のある広場」として整備されています。
門は腕木門と呼ばれる形式で、
建築年代は
江戸時代後期と推定されています。
蔵の中にいらっしゃった
ボランティアガイドさんに
いろいろと
このあたりの歴史をお聞きしました。
この辺の地形や
雰囲気は
「なんだか川口の安行に似ているなー」と思っていたら
なんと、
染井の植木職人さんが
安行にも移っていったそうです。
(安行の植木は、
江戸時代に主要生産地であった
巣鴨、駒込、文京区染井、田端等の
後方供給基地の性格を有していました)
幕末に日本に来た
スコットランド出身の植物学者、ロバート・フォーチュンは
この近辺の景色を
大絶賛していました。
「交互に樹々や庭、
恰好良く刈り込んだ生垣がつづいている公園のような景色に来たとき、
随行の役人が染井村にやっと着いたと報せた。
そこの村全体が多くの苗木園で網羅され、
それらを連絡する一直線の道が、
1マイル(約1.6km)以上もつづいている。
私は世界のどこへ行っても、
こんな大規模に、
売物の植物を栽培しているのを見たことがない。
植木屋はそれぞれ3,4エーカー(1.2ha~1.6ha)の地域を占め、
鉢植えや露地植えのいずれも、
数千の植物がよく管理されている。
どの植木屋も大同小異なので、
その一つを記述すれば、全体のたくみな趣向がわかるだろう。
入口をはいると、曲がりくねった平凡な小道が、
おおむね庭の中心にあった園主の家まで通じている。
道の両側には、温室を必要としない、
日本の観賞用の樹々や潅木類、
盆栽仕立てやテーブル型に刈り込まれた植物が、数多く栽培されている。」
ロバートさんの
他の記述も見てみます。
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「日本人の国民性の著しい特色は、
庶民でも生来の花好きであることだ。
花を愛する国民性が、
人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、
日本の庶民は我が国の庶民と比べると、
ずっと勝っているとみえる」
―『幕末日本探訪記―江戸と北京』より。
「サボテンやアロエなど中国で知られていない物がすでに日本にある。
これは日本人の気性の現れである」
「イギリス産のイチゴが売られていて驚愕した」
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旧近衛文麿邸である
「荻外(てきがい)荘」も見ようと思っていましたら
工事中のようでしたので、
ガイドさんにお聞きしたところ
「荻外荘」は荻窪と駒込に2分割されてしまっていたのですが、
本来の姿に戻すために
荻窪に帰ってしまうそうです。
こちらには、
近衛文麿が自決した
書斎が移築されていました。
「染井坂」を下りていき
「妙義神社」へ。
区内最古の由緒ある社で、
祭神は日本武尊。
江戸城を築いた太田道灌が
足利成氏との合戦の際に、
ここに詣で
勝利をおさめたことから、
「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれています。
染井吉野の巨木。
さすがは地元です。
「駒込駅」に向かう途中、
「妙義坂」にある
「駒込妙義坂子育地蔵尊」。
ちょっと悲しい歴史を秘めた少女たちのための
手をつないだお地蔵さんがいらっしゃいます...。
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神社仏閣 | 日記
Posted at
2018/12/02 18:35:43