本日は
特養にいる母親に会いに岩槻方面へ。
(もちろん、ガラス越しでの面会ですが、
歩けるようになっていたし、何より元気な笑顔を見られて
よかった、よかった!)
その後、近くにある
「慈恩寺」
「玄奘三蔵霊骨塔」に向かいます。
「玄奘三蔵法師」といえば、
かの「西遊記」によって人々に親しまれている名僧。
経典を求めて遠く天竺(インド)まで
苦難の旅路を続ける法師を助けて、
妖怪相手に大活躍する「孫悟空」は
誰もが知っているヒーローですね。
仏教史上「玄奘以前に玄奘なく、玄奘以後に玄奘なし」といわれた
この大偉人の霊骨が、
日本、それも岩槻に安置されていることを知る人は
少ないようです。
****************************************
【どのように遺骨は発見された??】
昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、
南京を占領していた日本軍が
稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、
石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖5年(1027)に
三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって
長安から南京にもたらされたことが記されており
日中両国の専門家が調査の結果、
玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。
中国では偉大な人物や国王の墓に、
数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であるため
盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが
南京へ葬られたことの原因と考えられます。
発見の翌年、
頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に
南京政府に還付されました。
翌昭和19年には、
南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。
【ご遺骨は分骨され、日本にやって来ます‼】
玄奘塔完成の式典の際、
「法師は仏教の一大恩人であり、
日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にするように」という趣旨で分骨され、
日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。
こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。
来日した霊骨は当初、
仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、
第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、
万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、
一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。
しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、
日本仏教連合会では疎開先を検討し、
慈恩寺に仮奉安することになりました。
慈恩寺の第五十世大島見道住職が、
日本仏教会の事業部長であったこと、
慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、
三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって
慈恩寺と名付られた由来もあり、
歴史と格式のある寺院だったことが
慈恩寺に奉安された理由と考えられます。
昭和19年12月、
寛永寺において日本仏教連合会主催の下に、
日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、
慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。
昭和20年に終戦を迎え、
仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から
正式な奉安の地を決することになっていましたが、
国民の生活も安定しない時勢でありましたので、
そのまま昭和21年を迎えました。
しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、
戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
この頃、慈恩寺に寄宿していた
仏教連合会顧問の水野梅暁師が
新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
昭和21年12月、
霊骨奉安3周年記念法要の際、
蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、
むしろ日中提携は文化の交流にあり、
日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠に喜ばしいことであり、
しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからには、
この地を顕彰の場と定めては」
との意向であり、
こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのです。
****************************************
前回は、
2018年3月6日にお参りしていました。
「慈恩寺」に。
「山門」。
幾多の火災にも焼け残った門。元禄4(1691)年建立。
ご本堂(観音堂)。
天保7(1836)年に焼失したものを、天保14(1843)年に建立。
昭和12(1937)年に改修。
「南蛮鉄打灯籠」。
天正17(1589)年に岩付城主北条(太田)氏房の家臣、
伊達房実より寄進。
ご朱印拝受。
子どもたちには
玄奘三蔵さんのお姿を写した
お守り購入。(祈・学力向上!)
日光社参の際の将軍宿泊地の一つに
往復とも岩付城があたっていたため、
将軍が慈恩寺に立ち寄ることもたびたびあったようです。
「徳川実記」には
寛永17年に3代将軍家光が
ここ慈恩寺で昼食をとったことが記載されています。
上野・東叡山寛永寺門跡を兼務していた
日光御門跡も、往復の際にしばしば訪れて宿泊していました。
岩付城主、
太田 資正(すけまさ)の文書もありますねー。
「玄奘塔 案内図」!!!。
ブログ一覧 |
神社仏閣 | 日記
Posted at
2021/05/04 20:07:16