
手賀沼周辺には
「旧手賀教会堂」のほかにも
まだまだ、まだまだ
興味深い場所が
たくさんあります。
2017年、関宿城博物館で
「十九夜講」の講演を聞いた時に知った
中国伝来の偽経「血盆経」。
これがまた、本当に
衝撃的な内容で、
中世から近世の日本人の精神構造・価値観(特に女性)に
多大な影響を与え続けていました。
(明治になってやっと廃止)
今回、
「血盆経」布教の中心地であった
我孫子「正泉寺」に
やっとお参りすることができました。
かつて日本には、
女性のお産や月経を「穢れ」の一種とみなす考え方がありました。
また、中国仏教の影響を受け、
女性は死後成仏できず、血の池(血盆)地獄に堕ちると信じる人々も
数多くいました。
「血盆経」とは、
女人を血の池地獄から救済することを説いたお経であり、
その信仰は中世から広く広まりました。
「血盆経」出現道場!!
なんかちょっと怖ささえ感じます。
正泉寺は
鎌倉時代の1263(弘長3)年、
執権北条時頼の娘の桐姫(法性尼)が開山したと
伝えられています。
中世の五輪塔は「法性尼の墓」。
(法性尼の父は北条時頼、母は讃岐局。
1246(寛元4)年5月に生まれた。
桐姫と呼ばれ、16歳で
鎌倉一の姫君と賞された。
この姫に憧れて武士同士が戦い、多数の負傷者や死者が出た話を聞いて、
己の罪深さを感じ出家して法性尼と改めた。
そして、東海道より東北への行脚途中、
この地で草庵を建て静養したが、
病状重く弘長3年3月14日、17歳で亡くなったという。
尼御寮(あまごりょう)、またはアマグリ様と呼ばれ、
敬慕の念が長年続いている)
『血盆経縁起』によると、
室町時代に法性尼の霊のお告げにより、
手賀沼から噴水と共に血盆経が出現したとされています。
「日本最初女人成仏血盆経出現第一道場」として知られ、
公家や武家から
一般の庶民まであらゆる階層の女性の信仰を集めたそうです。
江戸時代の寄進者名簿によれば、
信者は東海から近畿にまで及ぶそう。
1842(天保13)年建立の「鐘楼門」には、
室町幕府・第3代将軍足利義満揮毫伝の
扁額「女人成仏道場」!!
正泉寺には血盆経2巻のほか、
血盆経出現の様子や
女人救済の様子を描いた江戸時代の絵画3幅、
その他関連の典籍、血盆経や略縁起の版木などが所蔵。
これらは
正泉寺を中心とした
広範囲な女人信仰の実態を示す貴重な資料。
この「壱万体子育地蔵尊」は
ずっと見ていられないほど
何か一種の怖さ、重苦しさを抱いています。
私は霊感など何もありませんが、
この感覚に似た思いをしたのが
過去に2,3度ありました。
一番強かったのが、
安政の大地震で亡くなった新吉原の遊女たちが、
多く葬られた
「投込寺」、「浄閑寺」にある
「新吉原総霊塔」。
この空気感は、現場に行かねば
感じられません。
次いで、
「延命地蔵尊(俗称、首切り地蔵)」。
こちらも、背景を知れば知るほど
重いものを背負って、私たちに向かい合っています。
「本尊延命地蔵」は木造半跏趺坐像で総高8分(約2.5㎝)。
北条時頼が使用していた兜の前立とされる秘仏で
三重厨子に安置され、
開帳は50年に一度、
あるいは住職が交替する時のみ。
手賀沼方面(南)の参道。
かつて正泉寺の境内は手賀沼畔にまで及んでいたそうですから
いかに大伽藍であったかがわかります。
当然、参道は南の沼から通じていました。
その後、舟運にかわって成田街道筋からの参詣が盛んとなり、
参道は北からに。
(今も境内南側には、かすかな名残が...)
くずし字の勉強をしている(していた?)ので
こういうのが普通に読めるようになって
うれしいです。
くずし字を知らないと
たぶん歌の3行目が読めないと思います。
<
「すくはんと(救わんと)」と読めますね。>
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神社仏閣 | 日記
Posted at
2023/02/23 20:10:25