苗字帯刀を許された
士分格の家柄・
豪農・
商家といった3つの側面をもった
大型民家の旧吉田家住宅。
今度は、
武士(士分)の部分を見てみましょう。
(最後は今のお顔もご紹介)
格の高い武家屋敷になくてはならない
「式台」。
式台、玄関と続き、奥は
「仏間」。
左下に、何やら「不思議な穴」がっっ!?
「穴」の裏はこんな感じ。
外からはわからないような
当主の隠れ部屋につながっています。
書類のやりとりをしたようです。
「書院」(国指定重要文化財)に移りましょう。
「書院」は屋敷の「華」ですね~。
もう、見ていてため息をつくばかり。
匠の技に圧倒されます。
(この釘隠しは「新蔵」にて展示。書院にはレプリカが代わりに)
将棋の名人戦が行われる
野田の「茂木邸」の雰囲気そっくりでしたので
思わず、ボランティアガイドさんに
『なんだか、将棋の名人戦ができる雰囲気ですねー』などと
話していたら......。
出た!!
羽生さん!
やはりここでも対局されていたのですね。
銅版画で描かれた
明治の「吉田家住宅」。
「女中部屋」を見て、
「新座敷」(国指定重要文化財)へ。
(約20年前、柏市に寄贈される前に現当主のお母様が暮らしていたので
サッシと廊下にはカーペット、お部屋にはエアコンが入っています)
徳川昭武(慶喜さんの弟)さんの、
松戸「戸定邸」奥にある
お母さま用のお部屋に通ずる雰囲気がありますねー。
斬新なデザインの襖。
西日が入った時の欄間がきれい、とのこと。
外に出て、
「書院」と「新座敷」のお庭を拝見。
江戸城内の蔵から払い下げられた「鯱」。
あなたが見てきた歴史を、教えてほしい...。
ボランティアガイドさんに
『この木をよーく見てください』と言われ
見てみると。
何の変哲もないように見えますが。
裏に回ると。
おぉ―――!!
素で驚き
『これは珍しいですネ。こんなのは初めて見ましたよ!』と
お伝えしましたが、
2015年の夏に自分、
しっかり見てるぢゃあないですか。
(自分の記憶、あてにできない...)
最後は長屋門に戻り、
1863(文久3)年式
「竜吐水」。
8人分の仕事をするから
「大八車」。
(ちなみに稲わらで編んだ「米俵」は1俵=60kg)
最後に、中学生の時からテニスをしている
テニス大好き人間のわたしから、吉田家に感謝の言葉を。
江戸時代、3つの顔を持っていた吉田家は
その財力を生かして
明治から昭和にかけては
事業家として活動します。
登山やスキーなどのスポーツ振興に尽くされましたが、
なかでも旧吉田家住宅隣接の
「吉田記念テニス 研修センター(TTC)」は
日本テニスの振興・発展に多大な影響を与えたと思います。
本当にありがとうございます。
(ちなみに前回ブログでご紹介した「樹齢450年のテーブル」は
「新座敷」裏の斜面林から切り出されたものです。
斜面を降りていくと、テニスセンター!)
国枝慎吾選手の練習拠点でもあり
彼が車いすテニスを始めたコートとしても有名です。
**************************************
引退記者会見した車いすテニス男子の国枝慎吾さん(38)が
練習拠点とした千葉県柏市の
「吉田記念テニス研修センター」。
国枝さんの活躍を長年支えてきた代表理事の
吉田好彦さん(46)は
7日、「一切ぶれない人で、
プレーだけでなく普段の姿勢も含めて全てが世界ナンバーワン。
何度も元気をもらった」と感謝の言葉を繰り返した。
国枝さんは11歳の時、同センターで車いすテニスを始めた。
平成21年にプロになる前は、大学職員をしながらの活動。
朝練後に仕事に行き、夕方に戻ってきてまたトレーニングという
ハードな日々だった。
引退の意向は、1月22日の公式表明の少し前に電話で聞いた。
口をついて出たのは「本当におめでとう」。若干の寂しさもあったが、
感謝の思いがこみ上げてきたとし、
「今後はやりたいようにやってほしい」とねぎらった。
(産経新聞 2023/2/7)
**************************************

(日本の記者:「なぜ日本から世界的な選手が出てこないのか?」
フェデラー:「何を言っているんだ君は? 日本には国枝慎吾がいるじゃないか!」)
国枝さんのお隣が
吉田和子さん(旧姓:沢松さん)。
いい笑顔ですね!
(沢松和子さんといえば
「相手が100球打ってきたら私は101球返す」という言葉が有名です。
沢松奈生子さんのテニスもまさにそんなテニスでした)
昭和初期には、
柏・我孫子一帯の地域の振興のため
一大レジャーランドの建設を構想した、吉田家。
「宝塚劇場」を研究したうえ、
『関東の宝塚』の建設をめざしました。
その中核施設として、1928(昭和3)年、
豊四季の私有地に
当時東洋一といわれた
「柏競馬場」を、
翌年には競馬場内に
ゴルフ場をオープンしたのでした。
(その後、軍国主義の流れの中、競馬場開催は厳しくなる。
吉田甚左衛門は、軍馬育成場として競馬場を存続させた。
結局は、第二次大戦が始まり、競馬場とゴルフ場は閉鎖)
こうした
先見の明、柔軟性、行動力も
尊敬しております。
「吉田宗弘・和子夫妻による講演会」
(左が現ご当主、吉田宗弘さん。優しいお人柄がにじむ笑顔ですね)
ブログ一覧 |
歴史 | 日記
Posted at
2023/04/30 15:21:30