日本の民俗学の父・
柳田國男は、
13歳の時から約3年間の
多感な少年期を
利根町布川で過ごしました。
「柳田國男記念公苑」は、
國男が少年時代を過ごした
旧小川家の母屋、
土蔵(資料館)で構成されており、
さまざまな著作物や文書等を展示しています。
兵庫県福崎町に生を受けた國男を
利根町に結びつけたのは、
布川出身の医師で、
当時千葉県検見川で医院を開業していた
海老原精一でした。
精一の妻・としは、
布川の医師・小川東作の三女でしたが、
明治15年、
義父である東作が45歳で若死にしたために、
妻の実家の窮状を案じた精一が、
自分の病院で代診をしていた
國男の長兄・松岡鼎を
小川邸内の離れに住まわせ「済衆医院」を開業させました。
これは
鼎にとっても好機の訪れで、
経済的にも自立した鼎は、
まず弟の國男を引き取り、
次いで
両親と下の弟の
静雄(後に軍人・言語学者)、
輝夫(後に日本画家・松岡映丘)も呼び寄せました。
國男は、体が弱かったことから、
鼎の方針で学校へは行かずに、
裸で野山を駆けめぐり自由な暮らしをする反面、
代々学者の家系であった小川家の土蔵に納められた
万巻の書物を読みあさるという、
実に両刀使いでした。
これが
播州の三木家に次ぐ、
いわゆる
「第二の乱読時代」で、
日本民俗学の手引書的存在となった
『利根川図志』(赤松宗旦著)に出会ったのも、
この
土蔵の中でのことです。
小川家の祠での
神秘体験、
徳満寺の「間引き絵馬」に触れた時の衝撃など、
布川での様々な体験が
後に
民俗学の道に駆り立てて行ったと言われ、
それ故に
利根町は「第二の故郷」と位置付けられています。
國男少年ゆかりの
土蔵!
國男少年、
何度も開け閉めしたことでしょう。
この
生家の間取り、
國男さんにも
暗い影を落としたのでした...。
柳田國男は
島崎藤村の親友。
「椰子の実」は
國男が実際に体験した話をもとにしています!!
田山花袋もご親友。
さぁて、
いよいよ、
土蔵脇の祠へ。
小川家の祠は明治14年から15年頃、
当主の東作が祖母の屋敷の神様にお祀りし、
その長命にあやかろうと
日頃から愛玩していた玉を御神体としたもの。
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由来のことは知らずに、
いたずら盛りの國男少年は
家人の留守を見計らい
石の扉を開けて見た。
ところが
予想もしなかった綺麗な玉が入っていたのに驚いて、
興奮のあまり気が遠くなってしまった。
よく晴れた青い空を見上げたところ
数十の星が見えたという。
その時突然にピーッとひよどりが鳴いて通った。
その拍子に身がひきしまって人心地がついたという。
後年、あの時ひよどりが鳴かなかったら
気が変になっていたかも知れないと、
異常心理について振り返り、
そうした境遇に永くいてはいけないという
暗示だったのかも知れないと述べている。
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土蔵の中に展示してあるレプリカ。
このあと、
「利根町立歴史民俗資料館」で
本物の「球」とご対面することとなります...。
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Posted at
2024/06/30 14:17:34