「オートバックス 東浦和店」に用事ができたので
せっかく行くならば、すぐそばにある
高野長英の隠れ家(旧高野家離座敷)に行かねばと思い
行ってきました!!
(以前 Google マップで見つけたときの驚きが
まだ残っています。
なぜ、さいたま市に⁇)
途中も、いい雰囲気。
ごくごく普通の住宅街の一角に
それはあります。(中央奥にもう見えます)
高野長英が隠れていた屋敷が
まだ残っていることに
ちょっと感動。
高野長英といえば、
「蛮社の獄」。
1838(天保9)年、
日本人漂流民7人を乗せた
アメリカの商船モリソン号を
「異国船打払令」に基づいて、
浦賀奉行所が砲撃するという「モリソン号事件」が起きます。
これを知った
高野長英は、
著書
「戊戌夢物語」で、
江戸幕府の政策を批判。
これによって、
1839(天保10)年、
同じく江戸幕府を批判した
渡辺崋山らとともに
投獄されたのです(=
蛮社の獄)。
刑は永牢(えいろう:終身刑)。
思いもよらぬ重罪で、
いろいろ策を練っても
なかなか牢を出られません。
危険な政治犯、ですからね。
しかし、
1844(弘化元)年、
長英さん、とうとうやってしまいます!!
牢屋敷の火災が起きた際、
焼死を防ぐため、
牢の扉を開放する「切り放ち」を利用し、
外へ脱出。
本来は
3日間で牢へ戻る掟ですが、
長英さんはそれを破り、
そのまま逃亡!!
実はこの
牢屋敷の火災、
高野長英が人を使って放火させたものでした。
すごい人です。
逃亡後の足取りには諸説ありますが、
水沢にいる母を訪ねたことはわかっています。
その後は江戸に戻り、
潜伏しながら
兵法の書物を翻訳して生計を立て、
一時は
伊予国宇和島藩藩主のもとへ身を寄せました。
しかし、
江戸幕府の蘭学への締め付けが厳しくなり、
洋書の購入、翻訳を制限されたうえ、
江戸幕府に居場所が知れたとの情報が入ったため
再び江戸へ逃亡。
1849(嘉永2年)年には、
硝酸で顔を焼き、
「沢三伯」(さわさんぱく)の偽名で開業しています。
1850(嘉永3)年12月3日、
江戸幕府の役人に潜伏先へ踏み込まれ、
捕らわれて落命。
死因は、
捕縛の際に抵抗し
自分の短刀で喉を突き刺した、あるいは
役人に十手でひどく殴られて息絶えたなどの説があります。
享年47歳。若すぎます。
庭の、
さるすべり、
そして、
灯籠。
長英さんは
これらを眺める余裕があったのだろうか。
あなたたちは
長英さんを
見守っていたのでしょうか。
(椿椿山筆 高野長英像)
この屋敷の持ち主、
高野隆仙さん。
地元のお医者さんです。
漢方を
蕨の岡田静庵に、
蘭方を高野長英に学んでいます。
(
高野隆仙は、
武州(埼玉県)足立郡尾間木村の人である。
長英をかくまった罪で、鴻ノ巣のヒカタの同心詰所で
「石ぜめ」の拷問を受けたが、百日経っても口を割らなかったという。
江戸板橋に住み、長英の釈放運動をし、
脱獄後、高野隆仙の所に連れていった水村玄銅はその弟である)
幕府の拷問がもとで亡くなったとのこと.......。
「こちらへ・・・」隆仙は、廊下を歩き、独立した離れ家に長英を引き入れた。四畳半、三畳の部屋の奥に書籍のつまれた二畳の部屋があった。見事な茶道具が部屋の隅におかれていた。・・・
「先生が牢破りをしたと言う噂はしきりですが、代官所の役人も参らず、今のところ、御懸念はないと存じます。何日でも、この部屋にご滞在下さい」隆仙は、おだやかな表情で答えた。
(
「長英逃亡」より)
大河ドラマで扱ってもいいような
壮絶な人生。
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Posted at
2024/07/07 20:07:13