武蔵二ノ宮「金鑚(かなさな)神社」を後にして
向かいしは、
「金鑚大師 大光普照寺」。
「大光普照寺」は、
聖徳太子によって開創され、
平安時代になって
天台宗の僧・円仁が来山して
再興したと伝えられます。
古くから
天台宗の檀林が置かれた
天台宗の中心的な寺院のひとつであり、
このお寺の近くにある
金鑚神社の別当寺でもありました。
明治維新の
神仏分離令により、
当山の
奥の院・金鑚大明神は
武蔵二之宮・金鑚神社として分立し、
多宝塔も神社の所有に。
ご朱印拝受。
お次は、
ずっと前から行きたかった
「塙保己一 旧宅」へ。
まずは
塙 保己一(はなわ・ほきいち)が
子どものころ遊んでいたという
「龍清寺」。
塙保己一は江戸時代後期に活躍した
盲目の学者。
驚異の暗記力でさまざまな学問をきわめ、
大文献集
「群書類従」の編纂を成し遂げました。
また、
国学の研究の場として
「和学講談所」を創設し多くの弟子を育てています。
龍が空に飛び上がるような形をした
「飛竜の榧(かや)」(樹齢300年)。
保己一のお母さまが
保己一の病気が治るようにとお参りをした
「三日月不動堂」。
いよいよ
保己一さんの旧宅(生家)に会えます。
わ。
見えてきた。
あの
「ヘレンケラー」が
「私は特別の思いをもって、
埼玉にやって参りました。
それはつらく苦しい時でも、
この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、
”今の私”があるからです」と語ったことは
もっともっと多くの人が知ってもいい事実だと思います!
盲目の国学者、塙保己一は
1746年5月5日、
ここ、児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれます。
7歳にして失明し、
15歳で江戸に出て修行を積み
総検校という最高位に登りつめました。
この
入母屋造りの茅葺き二階建ての建物こそ、
彼の生まれた生家。
江戸中期の上層農家の形態がうかがえる
国の指定文化財です。
お風呂の位置も
ほぼ昔のままで使われています。
ホースからお湯が
ジャージャー漏れていました。
(直してあげたい!)
塙保己一旧宅の西側にある、
保己一の名を冠した公園
「塙保己一公園」に向かいます。
先ほどお参りした
「龍清寺」。
美しいですねー。
公園内には
塙保己一のお墓があります。
塙保己一は、文政4(1821)年、9月12日に
76歳で亡くなりました。
没後、
江戸四谷の安楽寺に葬られましたが、
後にこの寺が廃絶したため、
明治31(1898)年に隣接する
愛染院に改葬されました。
その時に、
お墓の土を郷里の保木野に持ち帰り墓が建てられたといわれます。
この日は時間がなく
「塙保己一記念館」には行けなかったので
後日ということで...。
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神社仏閣 | 日記
Posted at
2024/07/22 23:14:24