
明治期の軍人、
乃木希典(まれすけ)さんと
そのご夫人である
乃木静子さんご夫妻を祀る
那須塩原の「乃木神社」。
乃木将軍を知ったのは
おそらく
「二百三高地」。
「二百三高地」は中学生の時、
映画版も
テレビドラマ版も
がっつり見ていたため、
その時から
乃木将軍のことは
一時も忘れたことがありません。
(
旅順攻略戦を作品の中心にしながらも、
著名な軍人・政治家の描写や活躍に終始せず、
戦場で戦う将兵の思いや
葛藤に対しての細かい描写を
していたことが印象に残っています)
今、予告編を見ていても
ぐっと来てしまいます。
豪華俳優陣が圧巻の演技を繰り広げますが
なかでも、
新沼謙治さんの演技が
自分の頭から離れません。
戦争の非合理さ、
残酷さを象徴していました。
改めてまた、
見てみたいなー。
(
さだまさしさんは
この映画の主題歌を依頼された際、
音楽監督の山本直純さんに
「二百三高地の何を描くんですか。
要するに”勝った、万歳”を描くんですか?」と尋ねましたが、
「そうじゃない。戦争の勝った負けた以外の
人間の小さな営みを、ちゃんと浮き彫りにしていきたい。
そういう映画なんだ」と答えが
返ってきたことを受けて
依頼を快諾したという逸話があります)
幼少時の乃木将軍は
虚弱体質で臆病もの。
(こんなところも、わたしの大好きな
「伊庭八郎」に似ている)
友人に泣かされることも多く、
「乃木無人」(なきと=幼名)にかけて
「泣き人」(なきと)とあだ名されたそう。
お父さんは、こうした乃木将軍を
きわめて厳しく養育しました。
例えば、
「寒い」と不平を口にした7歳の乃木将軍に対し、
「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる」と述べ、
彼を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたといいます。
(このエピソードは、昭和初期の国定教科書にも記載)
そんなこんなの
いろいろな
積年の想いを秘めながら
「乃木神社」へと向かったのでした...。
(乃木ご夫妻の自刃時のご様子も決して忘れてはいけませんが
また別の機会に)
「乃木神社」設立の背景はこうです。
乃木夫妻は
明治天皇崩御の後を追う形で殉死。
青山葬儀場で行われた
将軍ご夫妻の葬儀当日、
ご遺徳を偲ぶ地元の住民は
別邸において遙拝式を斎行。
その場で後に
乃木神社初代宮司となる
大田原神社の手塚元氣宮司は、
将軍の神霊を土徳の神として祀る神社の創立を提議し、
参列者の絶大な賛同を得て神社創立が決定しました。
1915年(大正4年)に創立が許可され、
1916年(大正5年)4月13日に社殿が竣工、
鎮座が行われました。
「乃木神社」の境内は
実に凛としていて
引き締まった気が流れています。
背筋がすっと伸びます。
江戸時代からある
このきれいな用水路が
御手洗川となっていて
境内の清浄を
高いものに保っているのでしょう。
境内を貫く、この
蟇沼(ひきぬま)用水が流れをつくり、
その一部は
静子夫人の名を冠した
「静沼」へと引かれています。
「神馬舎」。
皇太子時代の大正天皇から賜った馬で
「殿下」にちなんで殿号(しんがりごう)と名付けられました。
殿号は別邸で亡くなり、
「静子林」(あとで訪れます)に葬られました。
神社の北東には別邸があり、
将軍ご夫妻は
数度の休職期間を別邸に滞在し、
「農は国の大本なり」と仰せられ
自ら田畑を耕され勧農の範を示され、
地元石林の住民とも親しく交流、
晴耕雨読の日々を過ごされました。
「静子林」。
静子夫人は
農作業のかたわら手仕事をして得たお金で杉苗を買い求め、
その杉苗をこの林に植えられました。
別邸に行っても
殿号が
いかに大切にされていたかがわかります。
「乃木清水」へ。
将軍は
明治天皇より別邸の誇りとするものを尋ねられた際、
この清水と答えられました。
乃木将軍ご自慢の湧泉「乃木清水」。
別邸滞在中、
起床後
この清水でコップ一杯の水をすくい、
口をすすぎ顔を拭われたと伝えられています。
元は乃木家の水田だった
「静沼」。
「乃木希典那須野旧宅(復元)」。
1892年(明治25年)に
乃木将軍自らが設計した、
農家風造りの木造平屋建て別邸。
乃木将軍は
1892年(明治25年)、1898年(明治31年)、
および1901年(明治34年)から1904年(明治37年)の間、
この別邸に閑居し、
農業に従事して休職の期間を過ごしました。
乃木別邸は
1990年(平成2年)10月28日の
不審火によって焼失。
乃木神社ではこれを過激派による放火であるとしています。
その後1993年(平成5年)に復元。
「乃木神社 神田」。
こちらの神田で収穫したお米は、
全国の乃木神社に配られ、
御神前に供えられます。
Posted at 2025/03/16 17:31:42 | |
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