21年ぶりに
春日部の「藤花園」へ。
まずは、我が家のバラを撮影してから
お出かけ。
昔は、近所の駐車場はみんな
500円だったような...。
開園(8:00)直後に入園しましたが
そこそこ人がいます。
まずは、入って右側の藤へ。
こちらの藤も根元を見れば
ただものではないことは
伝わってきます。
入って左側の藤。
樹齢はなんと、
1200年以上!!
根元を見れば
その怪物ぶりが
伝わってきます。
1200年前の出来事といえば......。
◆弘仁元年(810年):
藤原薬子・仲成ら平城上皇に政権を戻そうと謀って露見し、
捕らえられる(薬子の変)。
◆弘仁7年(816年):空海が高野山金剛峯寺を開く。
◆弘仁年間:嵯峨天皇、検非違使の設置。
平安時代初期!!
こんな住宅街の一角に
こんな老木がまだ生きているなんて。
(ちなみに、中国で一番古い藤の木は
樹齢500年です)
裏側。
昭和3年の「牛島の藤」。
かつては
渋沢栄一のみならず、
跡見花蹊(あとみかけい・跡見学園創始者)、
清浦圭吾(きようらけいご・内閣総理大臣)、
徳川昭武(とくがわあきたけ・徳川慶喜実弟)、
田山花袋(たやまかたい・小説家)、
「牛島古藤花」を遺した
三好達治(みよしたつじ・詩人)など
著名な政治家・文化人が訪れました。
太宰治の「斜陽」の作中にも「牛島のフジ」が登場しますよ。
徳川昭武さんが来たときに
おもしろいエピソードがありますので
それはのちほど...。
ちょっとした高台に登っても
樹齢1200年の藤の全貌をとらえることはできません。
根まわりは、10平方メートル。
樹は根本から数本に分岐して、
藤棚の面積は、驚きの
700平方メートル!!!
花房の長さは
最も長い物で2メートルにもなります!
(明治の頃は、3mもあったそう!!)
もう、
パノラマモードで撮るしかありません。
隣の藤の木もヤバイ。
かつては、料亭「紫雲館」があった園内を散策してみましょう。
(紫雲は藤の花を形容する表現)
そのほか
能登の和倉温泉の鉱泉を運び、薬湯を開き、
観藤客やその他一般にも入浴・宿泊できる施設があったようです。
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小説家・田山花袋は、
大正12年(1923)刊『東京近郊一日の行楽』のなかで、
「粕壁の藤花」という随筆をのこしています。
これによれば、大町桂月と田山が滞在していた羽生で落ち合い、
酒を飲みながら汽車で粕壁に向かい、
さらに藤花園で、牛島のフジを鑑賞しながら
吸い物や煮つけをアテにしながら、
競い合うように酒を酌み交わしたようです。
…私達は何を話したらう。
田舎の百姓家、藤の花を見せて客を引いて
拙い酒と肴とを勧める田舎の百姓家―
さういふものが不思議に私には思はれた。
吸物はおとし玉子、肴は鰤か何かの煮附、酒はくさい地酒・・・。
(略)何うして車夫に賃金を払つたか、
また何うして汽車に乗つたか、それすれも分からないくらゐであつた。
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あまりいい感じには書いてくれてませんねぇーー。
でも、かつての雰囲気が伝わります。
この老松(樹齢500余年)、
枝ぶりやたたずまいがやけに気になり
何枚か写真を撮りましたが。
裏側。
何と、この木の前で
1902年、自転車大好き
徳川昭武(徳川慶喜実弟)さん一行が
写真を撮っているではないですかっ。
この写真は
以前、
松戸・戸定邸で見ていますが
今回、撮影場所を特定!!
松戸からみんなで来たと思っていましたが、
隅田の水戸徳川家・下屋敷から
自転車屋さんも随行させていました。
午前7時出発で、10時半に春日部着。
午後1時には春日部を発ち、4時に水戸藩下屋敷に到着。
この昭武さんに随行して
パリ万博に行ったのが
渋沢栄一さんですね。
渋沢さんは、1912年に
この藤を見に来ています。
最後にやっとここが
「連花院」境内だったことを示すものを発見。
誰も気づいてくれなくて
ちょっとかわいそう。
「藤花園」を出て
「春日部市郷土資料館」へ向かいます。
『渋沢栄一もみた春日部の藤』
「粕壁宿」ジオラマ。
旗が立っている場所は
1900年、徳川慶喜さんが泊まった場所。
おもしろい古文書が
展示してありました。
「疱瘡神の詫び証文」!!
江戸時代に広まった呪符(古文書)です。
(疫病神5人に詫びを入れさせてます。
特に、子どものいる部屋に貼っていたようですねー)
解説文や、ミニチュアの古文書もいただきましたので
楽しく読ませていただきました。
Posted at 2021/04/25 16:30:26 | |
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