関宿城へ
待ちに待ったセミナーに行ってきました。
昨年、上野戦争のことをいろいろと調べていたら
上野戦争の激戦地「黒門」付近で
当初、優勢に戦っていたのは
関宿藩の「萬字隊」だったというのを知り、
がぜん興味がわいたのと、
ちょうどそのころ知った
この本。
『いちまき ―ある家老の娘の物語―』 中野翠/著
一家老の逃避行のお話は
会津藩家老「西郷頼母(たのも)」を思い出して
せつない気持ちになります......。
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「幕末関宿藩家老 木村正右衛門と彰義隊について」
内容:
関宿藩家老木村正右衛門は、
幕末関宿藩佐幕派のトップとして
幼君久世広文を助けて彰義隊に加わり
上野戦争を戦い抜きました。
上野戦争後は、みじめな敗走を続けた後に
沼津に移住し、晩年は地元の教職に携わった
一家老の事跡を紹介します。
講師:中村正己氏
日時:平成29年1月15日 (日)
13時30分~15時30分
定員:30名
対象:一般
受講料:200円
お申し込み:開催日の1か月前9時から電話にて受付けています。
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◆5月15日午前6時半開戦になり、
萬字隊は山王台に陣を布いた(現在の西郷隆盛像の付近)。
上野山内の周囲の八門(黒門、新黒門、穴稲荷門、清水門、
車坂門、屏風坂門、谷中門、新門)があったが、
当日の戦闘では、
正面の黒門の攻防が最も激烈を極め、
官軍は中々これを撃破することができなかった。
これは、山王台に陣した萬字隊が黒門口の官軍に
盛んに砲撃を加えたからで、官軍は死傷者が続出し、
出退きわまる状況であった。
そこで官軍は、兵力を増強し、死力を傾けて、
まず、山王台の萬字隊を攻撃し、
昼過ぎには彰義隊は総崩れとなり、敗北した。
死傷者の数は、卍字隊(萬字隊)のうち5名が戦死、
11名が傷を負ったと、宇野田鶴雄・懐中日記に記録されている。
尚、この上野戦争には原田左之助(新撰組)も、
会津へ行く永倉新八らと野田市山崎で別れ、
江戸へ引き返し戦っていた。しかしこの戦争で命を落としている。
◆佐幕派の中心人物であった木村正右衛門は、
上野戦争の敗北後、藩主広文とともに、
上野山内を脱走して佐倉に逃げた。
そして、沼津市へ移り、同市の兵学校教頭となった。
氏名を山田大夢と改め、静岡県師範学校の初代校長も務めた。
『いちまき』読まなきゃっ。
Posted at 2017/01/15 18:23:06 | |
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