「大前神社」のあとは
「桜町陣屋跡」へ。
まずは「二宮神社」さん。
野趣あふれる(?)参道。
こういう参道、大好きです。
凛としたたたずまい。
すぐ隣の「陣屋跡」へ。
(陣屋とは、役所ですね)
ここで家族と
26年間、暮らしたんですねー。
尊徳さんが
眺めたであろう景色、
確実に踏みしめたであろう地面、石を
193年後のいま、追体験できるうれしさが
じわじわ~、っとこみ上げてきます。
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二宮尊徳は小田原藩主・
大久保忠真公に手腕を認められ、
野州桜町(現・真岡市の一部)の復興の命を受け
1823年に桜町陣屋に赴任、
自ら先頭にたち用水路や堰や橋の改修を行いました。
尊徳が自ら体験し、編み出した
「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の四つの教えは、
天保の大飢饉にも生かされ、多くの人を救済し、
桜町にすごした時代は尊徳が最も充実した時期で、
報徳仕法の実践とともにその名は全国へ知れ渡りました。
二宮尊徳が仕事をしていた役所跡が
「桜町陣屋跡」としていまも残っています。
また、その隣にある「二宮尊徳資料館」では
直筆の書をはじめ、ゆかりの品々が展示されており、
より詳しく知ることが出来ます。
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玄関。
奥の「次之間(10畳)」は
尊徳さんが執務のために常駐していた場所。
(手前には5畳のお裁きの場が)
板垣で囲まれた内庭に
罪人が座らされます。
板戸には尊徳の教えが。
弟子や村民を集めては
教えを説いていたそうです。
陣屋の周りは
土塁や水路で
守られてました。
(これは入口。
直進できないようになってます)
しかし、
のんびり
ゆったーりした時間が流れていますナー。
敷地内の田んぼ。
かつて陣屋敷地内にあったこのお社、
大前神社の境内にあった「二宮神社」に移築されたものだと思います。
最後に「資料館」へ。
入館後、ガイドさんの口頭による解説のあとは
7分ほどのDVDで尊徳さんの偉業の数々を学習!!
しかし、尊徳さん、
改革が役人や村民の妨害にあい
うまく進まなく行き詰まり
「失踪」したことがあるのにはビックリ。
(何度か辞表も出しているみたい)
でも、その失踪期間中、
なんと、
村の復興を祈り、成田山で21日間の断食をしていたんですねー。
これを境に、村人たちの反感も収まり、
復興は順調に進んだそうです。
(1829年のことです)
尊徳さんの歌に
『見渡せば 敵も味方もなかりけり おのれおのれが 心にぞある』
というものがあります。
自分の改革方法こそが「善」であり、
これを押し通そうという「我」が
一部の村民の反発を招いたと気付いたのでしょうか?
(最近弱いレッズですが、
「浦和」の敵は「浦和」、という名言もあります...。
あ、これは関係ナイカ...)
幸田露伴の『二宮尊徳翁』内の口絵で
初めて「負薪読書」がビジュアル化され
その後の石像、銅像の原型となっていきます。
尊徳さんの娘婿・富田高慶さん(尊徳さんの弟子)が
『報徳記』を著すことで
二宮尊徳の生涯は全国に知れ渡ることになります。
この「一円札」、まだ使えるそうです!
明治天皇愛蔵の、金次郎像。
明治天皇は深く金次郎の偉業に感銘を受けていて
富田高慶さんと面会されたこともあるそうです。
資料館の南にある
尊徳さんのお墓(蓮城院)にも行きました。
お墓のほぼ延長線上に
二宮神社の鳥居が見えました...。
(見てみてびっくりの
「専修寺(せんじゅじ)」に続く......。)
Posted at 2016/06/19 13:06:13 | |
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