
今日は
次女のお友達も連れて
1週間前に改装されたばかりの
「ヤクルト茨城工場」へ。
その後は
古河まで足を伸ばします。
長谷観音。
すぐそばの
「鷹見泉石記念館」。
お向かいの
「古河歴史博物館」へ。
さすが、
雪のお殿様!!
お手紙にも雪が散らされています。
1878年頃に描かれた「鮭図」には
圧倒されました。
(やっぱり、実物と写真は違う!!)
慶喜の油絵も見ちゃいました。
お昼ごはんを食べに「坂長」さんへ
向かいます。
小学校のフェンスにも、雪の結晶!
歩道にも。
「古河のお休み処 坂長」、着!
ここにも、雪。
雪!
「雀神社」へ。
最後は、
「古河総合公園(古河公方公園)」で
古河めぐりは終了。
****************************************************************
「中世、東日本の歴史を語るとき、
『古河公方』を抜きに語ることはできません」。
古河歴史博物館がかつて企画展「古河公方足利氏」を開いた際、
来場を呼び掛けた文言だ。
こう続ける。
「中世の古河は、東日本の将軍の御座する、
東国随一の政治・文化の中心都市であったということができるでしょう」
そこまで言われると、がぜん古河の歴史が知りたくなる。
室町幕府は東国支配のため鎌倉府を置き
将軍家の出身者を配した。
この「鎌倉公方」はやがて独立志向を強め、
一方の将軍家は東国統治の実権を奪いたい。
両者の関係は険悪化。
公方は補佐役の関東管領上杉氏とも対立-。
1454年に重大な事件が起きる。
時の鎌倉公方足利成氏は意に沿わない
関東管領上杉憲忠を謀殺。
幕府は上杉勢に援軍を送り鎌倉を落とした。
このため成氏は古河に移り、初代「古河公方」が誕生する。
学芸員の永用(ながよう)俊彦さんは
「もともと古河は反幕府勢力を駆逐するための軍事拠点だった。
さらに鎌倉公方の御料所(直轄地)だったこともあって
本拠にしたのでしょう」と語る。
古河には家臣が集住。
鎌倉から多くの寺社が移転し、
僧侶や文化人も移ってきた。
城下は商人や職人で活気を呈し、
渡良瀬川や思(おもい)川を活用する
水上交通は一層にぎわった。
東国の動乱は古河公方を軸になおも続くが、
小田原の北条氏が台頭する中で弱体化し、
5代義氏が死去(1582年)すると、
歴史の表舞台から消える。
同館の古河公方に関する展示は
成氏が記した感状など4点にとどまるが、
江戸時代に巨大化した古河城の模型が目を引く。
関東では江戸城に次ぐ規模だったという
古河城(明治以降の河川改修で取り壊された)。
日光街道の宿場でもあった城下町は繁栄を極めた。
****************************************************************
Posted at 2017/02/25 20:54:43 | |
トラックバック(0) |
工場見学 | 日記